霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

萩藩初代藩主毛利秀就乳母の墓

2011-05-22 11:19:20 | 歴史/古文書
この墓は本郷の深龍寺にある。どうして本郷にあるのかよく分からないが、その乳母の法名「月松妙観」の墓があるため、藩からの便宜を受けていた。客殿が破損したときは紙座の塩田屋道可から銀700匁の寄進をいうけ、不足の米銀は藩から負担を受けている。元禄10年(1697)の位牌管理料として銀300匁が寄進されそれを本郷の茶屋に預けて金利として毎年7斗8升相当を受けていたと、錦町史に書かれている。

深龍寺

2011-05-21 10:54:26 | 歴史/古文書
 山口県岩国市本郷の中心地だと思います。コミュにテーグランドの近くにありました。桜が満開で綺麗な落ち着いたお寺です。訪ねるももここも無住のお寺のようで誰も出てきません。明治5年に深福寺と龍泉寺が合併して深龍寺となったもの、深福寺は天禄年間(970~72)の創建といわれ、由緒は古い枝垂桜が満開で美しく女性はこの桜をバックに写真を取っていました。この鐘楼の中にある鐘は釣鐘の銘文を見ると、この地深川畑に鐘がないのを気にして天文2年(1533)深龍寺の開基・三家本備前胤兼は前業を悔いて諸人にも進め、募金を集めて鐘を寄進したと寺社由来に書かれている。と歴史のある釣鐘であって戦時には供出を遁れている。

深谷大橋

2011-05-20 10:16:34 | 歴史/古文書
何年ぶりかの訪れである。昭和36年に山口県と島根県の県境に難工事のうえ造られたものでそれまでは深谷渓谷を降りてまた登ってくるという半日行程をものの一分で通過できるようになったのです。

 高さは86メートルで下を見ると足がすくみます。本当の怖くて覗き見ることが出来ないくらいでした。長さは99.5メートルと小さな橋で1980年には一日平均車両通行台数は1295台もあったのですが今は少なくなっていて寂しい橋となったいました。往時は観光客も来ていたのでしょうか土産品店や食堂の廃屋が残っていました。

一本杉

2011-05-19 10:01:02 | 歴史/古文書
水源公園の一角にあり中心的なシンボルでもある。樹齢1000年以上、根回り5メートル。樹高は20メートル。
この近くには弥生遺跡も発掘されている。また寛治年中(1087年頃)には井谷郷三郎という豪族がこの地を開拓していたと町の史書には書かれている。杉の根元にある池はわらで作った大蛇と雨乞い神事を行い大蛇の池とも言われ雨乞いの祭をしていたそうである。水源会館です。高津川の源流の一つではないかと思います。

雲松寺

2011-05-18 09:25:32 | 歴史/古文書
 那智神社の西隣にこのお寺があります。那智神社の神宮司本覚寺はこのお寺と合併しているためここのお寺が那智神社の社宝を保管しているのです。このお寺は現在無住の寺との役場の人の説明であった。社宝
鰐口・・応永年間終わりごろのもの青銅製で直径28センチ幅は10センチ真ん中は少し盛り上がっている。これを神宮寺大師堂の前に掲げ、僧侶に会合のときを告げるなどしたものである。応永28年の刻印がある。最初那智神社に奉納されたものである。

掛け仏・・木製の円盤に銅版を貼り付け浮き彫りで仏像を現わしているもの、銘に嘉暦3年(1328)願主藤原国光とかかれているものが2個、嘉禄2年(1226)願主行信とあるものが1つ残っている。ずいぶん古いものである。当時の国司かなんかであったのであろうか不詳である。石見吉見氏が入部前のことである。

大般若経・・これは陶晴賢反乱のときの戦利品でと書かれており陶晴賢は賊軍として見られている。吉見氏は勝利者として評価されている。当然吉見領であり吉見氏の立場で書かれていた。経巻の隅に陶氏反乱の時の戦利品と余白に書かれているのが残っている。これは山口県阿武郡むつみ村まで出陣し戦ったことを意味している。

11時半頃となりましたので、六日市インターの近くにある。むいかいち温泉、ゆ・ら・らの宴会場で昼食をしました。ここはレストラン・温泉・プール・道の駅と施設が集合しています。温泉の売店で豆乳の粉末を買いました。12時50分つぎへ出発しました。

那智神社

2011-05-17 08:58:17 | 歴史/古文書
 歴史探訪会としては次の視察地としてこの那智神社に移りました。暫くして役場の若い男性が駆け寄ってようやく来てくれました。先ずは旧道面家住宅の説明です。この神社のことは詳しくなくさらりと説明しただけでした。この神社の参道は町内で一番長い参道で杉の木も大きく中には空洞の出来ている杉もあるとのこと。
 この神社掃くものの那智権現ぐうから勘定されている天平12年(740)と古い養和2年には(1182)には国司の羽問時信が社殿を造営し堅田1町5反を寄進している。その後吉見氏の寄進、坂崎出羽守は逆に社領を没収しているが後の亀井氏は社殿を再興して保護している。従ってこの神社の神紋は亀井家の紋となっていました。那智神社の拝殿です。ここの宝物は神社の神宮寺であった本覚寺に吉見氏5代頼弘が鰐口1首を応永28年(1421)に寄進、弘治元年(1555)吉見氏と陶晴賢の合戦、弘治3年(1557)大内義長を攻めて吉見氏が阿武郡を攻め取ったとき、むつみ村高佐のあった山岳寺の般若経600巻を奉納している。また掛け仏もあってこれら三つが社宝として残っているとの話である。那智神社の本殿です。

旧道面家住宅

2011-05-16 08:18:56 | 歴史/古文書
 歴史探訪会の行事で石州西南部を訪れました。ここは吉賀(よしか)町、注連(しめ)川というところです。重要文化財に指定されている。江戸時代後期の一般農家の住宅です。
 役場のガイドの方がこられて説明があると待っていたのですが来られずわれわれで探訪して次の場所へ移動することになりました。この一般農家は昭和37年まで住んでおられ今は近くに移っておられる。当時住んでいたおばあさんはまだご存命だそうである。建築年は1750から1800年頃ではないかといわれています。道面家初代が住む前から建っていたのではないかといわれている。

 桁行き4間、梁間3間の総坪数12坪(39.6㎡)土間が狭くカマドがあるだけであった。居室部は4間取りで「おもて」「おくのま」「なかえ」「なんど」なるのであるがそれぞれ小さな部屋で、今は仕切りのとは取っ払ってあり「納戸」だけが板戸で仕切られている。江戸時代の農民は小さな家に住んで下のだなあと実感したのである。でもトイレと風呂は別棟にあったのではあるが。過去何度か増築されていたものを創建当時のものに縮小し復元したものです。其の説明がこの案内板に書かれています。この下の写真は住宅の裏側です。屋根はかやぶきです。月2回は火焚きをして室内をいぶし虫などの駆除をするそうです。今日は役場の人が来てその火焚きをしてくださるそうでしたのですが来られなくて残念でした。屋根は入母屋作りです。

秀吉と三成の出逢いの像

2011-05-15 19:34:20 | 交流/講演


 おもてなしの極意とかサラリーマンの処世術として有名な話の一つになっています。石田三成は長浜駅から5キロメール東の長浜市石田町で生まれた土豪の息子でした。今も出生地近くの地名は三成の官途名「治部」という小字の地名が残っています。
 
 「三献の茶」の話が有名である。
 
 長浜城主は羽柴秀吉が鷹狩に出ていたとき、途中観音寺に立ち寄ったのです。汗をかいていた秀吉にお茶を献上するのですが。秀吉の汗をかいている状況を察し、寺の小姓佐吉少年は最初はぬる目のお茶を出し、ごくごくと飲んだ後は少し熱めのお茶を茶碗半分に出し、秀吉は少なかったのでもう1杯所望し三度目は熱い茶でお茶のうまさを出してもてなしたという。気配り上手で後に佐吉少年は秀吉に用いられ歴史に名を残した石田三成となったのである。

 観音寺には今でもそのときお茶に使った井戸が残っているとのことです。

曳山博物館

2011-05-13 12:57:45 | 交流/講演

 この曳山博物館は長浜黒壁ドラマ館の前にあります。
曳山は長浜八幡宮の祭礼のときの山車で特に子ども歌舞伎は全国的に有名です。

 この祭は秀吉が長浜城主であったときから始まったのです。待望の男児誕生を祝って長浜の町衆に秀吉が祝いとして砂金を与えたのです。その砂金を元手に曳山を作り、秀吉が再興した長浜八幡宮の祭礼で曳き回し始めたのが始まりといわれている。しかし豪華な装飾を用いた山車や子供歌舞伎は江戸時代中期から始まったものといわれています。