この八幡宮はかなり古く大内氏が台頭する前の寛治3年(1089)にその地の長野長者平 忠平氏が宇佐八幡宮から勧請している。
大内弘世が修理をしている大社殿であったといわれている。いまの建物は江戸中期のものである。
毛利敬親公がふじの花を見物に来られたという記録があるが今は庭園も荒れていて池の半分は水がない状態である。残りの半分には鯉が飼ってあった。
江戸時代には防府の兄部家等がここで干し魚を売っていたとの記録もあるという。祭りには市が出てにぎわった様子が伺えます。
今は隣には広い運動場があり地区の少年倶楽部が野球の練習に励んでいました。
大内弘世が修理をしている大社殿であったといわれている。いまの建物は江戸中期のものである。
毛利敬親公がふじの花を見物に来られたという記録があるが今は庭園も荒れていて池の半分は水がない状態である。残りの半分には鯉が飼ってあった。
江戸時代には防府の兄部家等がここで干し魚を売っていたとの記録もあるという。祭りには市が出てにぎわった様子が伺えます。
今は隣には広い運動場があり地区の少年倶楽部が野球の練習に励んでいました。
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