霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

大内氏はなぜ滅びたのか

2008-10-18 17:45:25 | 歴史/古文書
 大内氏が室町時代から戦国時代にかけて西中国を中心に将軍を助け守護体制に下で7カ国の国を従属させて分国支配をしてきたのである。

 大内教弘の時代に守護所が完成し、大内氏の掟書きを発して分国支配が体制として固まり、大内持世、大内政弘とそれが拡大しグレードアップして行った。大内義興の時代にはほぼ体制が整い且つ対明貿易も一手に仕切って富の蓄積もなった時期であろう。

 しかし大内義隆の時代になると尼子氏攻略遠征で大敗し、からくも山口に帰参した後は戦をすることが嫌になり軍事には目を向けず文治中心の政治に変わってしまった。

 戦国時代の後期では軍事による下克上が当たり前の時代に義隆は臣下の動きに目をそらし不穏な動きにも無神経であったことが武断派である陶隆房のクーデターの惹起の原因かもしれない。それでも陶隆房は大内義隆の甥を当主に据え大内家の存続を図ったのであるが、毛利元就との戦いで毛利元就の策略にかかっというか陶氏の戦略にも甘さがあったのが原因かもしれない。

 厳島合戦がその分かれ目であるが3~4000人の毛利軍と2万人の陶軍との戦いでは数からいって陶軍が俄然優勢であるのであるが、戦の場所が悪かった、厳島という島での合戦が分岐点で陶軍側としてその島で戦を開始することはそもその間違いであったのであろう。

 2万人を島に閉じ込められて外から攻められればたちまち2万人の兵は崩れて混乱してしまうのである。

 また想定外のこともおきたこともある小早川水軍当約100隻余りと大内水軍約500~600隻と大内側が海上でも優位にあったのが村上水軍が毛利側に急遽ついてしまったこと。嵐の中 毛利軍が水難事故もなく厳島に渡れたことなど、また手紙による陶陣のかく乱の成功など、運がよかったというか数かずの奇跡や緻密な計画の奏功が積み重なって大内氏は滅んでしまったのである。そういった奇跡がなければまだ大内氏は滅亡せずのこっていたかもしれない。

しかしそもそもは大内義隆は時代の潮流に対峙した統治システムの変革ができていなかった。できなかったこと。二つ目は義隆政権の統治力が弛緩状態であったところを早めに断ち切り新しい政権が作れなかったことが大内氏滅亡を早めたといえよう。

 いろいろと偶然というものもあるでしょうが一言で云えば「富国強兵」でなく「富国弱兵」の国つくりをしてしまったということであろうか・・・今の日本はどうでしょうか? 

 「歴史は繰り返す」。歴史というものはやり直しが利かないし人生そのものですね。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿