
憲章館と名前がいかにもいかめしそうですが、これは吉敷にあった里の学校の名前です。今は良城小学校の敷地や校庭になっています。
当時吉敷村の領主であった毛利房裕が家臣であって学者であった服部傳巌の勧めで建立したもので、村の7歳以上の子が入ることができたとのことです。講堂、教室、食堂、寄宿舎、馬剣槍弓道場があったといわれています。多いときは約100人の生徒がいたという。
やはり伝統ある学校らしく校庭にはいろいろな石碑があります。特に幕末の鳥羽伏見の役や戊辰戦争、その後の政府での活躍した人が多く、人材を育てた学び舎でもあったのでしょう。この憲章館は明治2年9月の廃校となっています。そこのたたずむと当時の雄志が目に浮かびすがすがしい気分に浸れます。
私の元同僚もこの学校で働いています。
200105
観光案内板参照
当時吉敷村の領主であった毛利房裕が家臣であって学者であった服部傳巌の勧めで建立したもので、村の7歳以上の子が入ることができたとのことです。講堂、教室、食堂、寄宿舎、馬剣槍弓道場があったといわれています。多いときは約100人の生徒がいたという。
やはり伝統ある学校らしく校庭にはいろいろな石碑があります。特に幕末の鳥羽伏見の役や戊辰戦争、その後の政府での活躍した人が多く、人材を育てた学び舎でもあったのでしょう。この憲章館は明治2年9月の廃校となっています。そこのたたずむと当時の雄志が目に浮かびすがすがしい気分に浸れます。
私の元同僚もこの学校で働いています。
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