
関が原の戦い以降
徳佐郷周辺の関が原の戦い前後動き。
領主吉見家を中心にきびしいリストラのはざまで耐え忍ぶ時代。
天正18年(1590)吉見正頼の嫡男広頼、小田原の役に出陣頼。
文禄元年(1592)吉見正頼の孫・元頼、文禄の役(朝鮮)に出陣。
文禄3年(1594)元頼没す(21歳)。
慶長2年(1597)吉見広行。慶長の役(朝鮮)に出陣
慶長3年(1598)豊臣秀吉没す。
吉見広頼家督を広行に譲り萩指月城に隠居する。
慶長5年(1600)吉見広行、関が原の役に出陣、東軍に通ず。
毛利氏、防長2国のみに封ぜられる
吉見氏、三本松城を引き払い萩指月城に移る。
慶長9年(1604)広行、出奔し吉見本領没収される。広頼は隠居料1139石拝領
慶長17年(1612)広頼、吉川正春を養子に迎え、家督を継がせる。
慶長18年(1616)広頼、阿武郡大井串山にて没す。(72歳)
元和4年(1618)広長(広行名を変える)一家自刃し、吉見家滅亡す。
吉見広行は慶長の役に出陣し武功を立て秀吉から感状をもらったりするなど、家を盛り立てていたが、秀吉は毛利元就の孫、秀元(輝元に実子がいない時は義嗣子であった。輝元とは従兄弟同志)に長門に国を与えると証文を書いている。長門の萩以北は吉見領で重複していて没収されかねない。そういった不満で一時出奔したが広島で捕まり、謹慎の身となった。その後謹慎は解かれ広行は関が原の戦いで西軍に付き敗れる。
津和野の石見地域の領地4万石は坂崎出羽守成正に徳川家康は与えている。吉見広行の領地は阿武郡と厚狭郡・佐波郡の一部計1万5千石になってしまう。
それを毛利輝元は8カ国112万石が防長2州の30万石に転封されたことで、家臣団の禄も5分の1にしたが、吉見広行は今まで5万5千石が2000石にと100分の3.6にしてしまったのである。
あまりのリストラに腹を立て出奔。家康や、細川忠興等に仕官したが、輝元の承諾が得られず13年間の浪々のうえ帰山している。輝元に帰山を許され200石を賜った。
萩市平安古の屋敷にすんでいたが、輝元公を招くに当たり女が毒薬を買ったという讒言が生じ謀反の嫌疑で輝元公の使わした軍勢百騎に囲われ奮戦のすえ自刃した。これにより吉見氏は絶えた。いろいろ説はあろうが輝元に殺されたということである。
※讒言(ざんげん)・・・あることないことを言って人を陥れる。告げ口、悪口を言う
吉見領は慶長9年(1604)毛利家に没収されたが、徳佐郷は既に文禄2年(1592)年の古文書の内容からすれば毛利家からの指図となっている。吉見氏の知行が十分でなかったのか?
また慶長9年の以後、吉見氏の多くの家臣も帰農したり商人になっている。徳佐郷もそうである長嶺氏とか上領氏・木村氏とかが商人、農民で名前が残っている。毛利氏の家臣も藤井氏なども帰農している。
他地区でも毛利輝元の家臣達も禄が5分の1に減ったことで武士をやめ帰農や商人に多くなっている混乱の時代である。1万8千余石の国人領主から4000石になったことでやっていけず出奔した平賀一族や、返租米調達のため給領地を売ったり質入したりする家臣達もいたといわれる。年貢は7公3民と忍びがたきを忍んで新田開拓に意を注いでいたのである。20年後にはなんとか5公5民に戻っている。
参考文献 沖本博著「吉見氏とその時代」 北村知紀著「萩開府」
徳佐郷周辺の関が原の戦い前後動き。
領主吉見家を中心にきびしいリストラのはざまで耐え忍ぶ時代。
天正18年(1590)吉見正頼の嫡男広頼、小田原の役に出陣頼。
文禄元年(1592)吉見正頼の孫・元頼、文禄の役(朝鮮)に出陣。
文禄3年(1594)元頼没す(21歳)。
慶長2年(1597)吉見広行。慶長の役(朝鮮)に出陣
慶長3年(1598)豊臣秀吉没す。
吉見広頼家督を広行に譲り萩指月城に隠居する。
慶長5年(1600)吉見広行、関が原の役に出陣、東軍に通ず。
毛利氏、防長2国のみに封ぜられる
吉見氏、三本松城を引き払い萩指月城に移る。
慶長9年(1604)広行、出奔し吉見本領没収される。広頼は隠居料1139石拝領
慶長17年(1612)広頼、吉川正春を養子に迎え、家督を継がせる。
慶長18年(1616)広頼、阿武郡大井串山にて没す。(72歳)
元和4年(1618)広長(広行名を変える)一家自刃し、吉見家滅亡す。
吉見広行は慶長の役に出陣し武功を立て秀吉から感状をもらったりするなど、家を盛り立てていたが、秀吉は毛利元就の孫、秀元(輝元に実子がいない時は義嗣子であった。輝元とは従兄弟同志)に長門に国を与えると証文を書いている。長門の萩以北は吉見領で重複していて没収されかねない。そういった不満で一時出奔したが広島で捕まり、謹慎の身となった。その後謹慎は解かれ広行は関が原の戦いで西軍に付き敗れる。
津和野の石見地域の領地4万石は坂崎出羽守成正に徳川家康は与えている。吉見広行の領地は阿武郡と厚狭郡・佐波郡の一部計1万5千石になってしまう。
それを毛利輝元は8カ国112万石が防長2州の30万石に転封されたことで、家臣団の禄も5分の1にしたが、吉見広行は今まで5万5千石が2000石にと100分の3.6にしてしまったのである。
あまりのリストラに腹を立て出奔。家康や、細川忠興等に仕官したが、輝元の承諾が得られず13年間の浪々のうえ帰山している。輝元に帰山を許され200石を賜った。
萩市平安古の屋敷にすんでいたが、輝元公を招くに当たり女が毒薬を買ったという讒言が生じ謀反の嫌疑で輝元公の使わした軍勢百騎に囲われ奮戦のすえ自刃した。これにより吉見氏は絶えた。いろいろ説はあろうが輝元に殺されたということである。
※讒言(ざんげん)・・・あることないことを言って人を陥れる。告げ口、悪口を言う
吉見領は慶長9年(1604)毛利家に没収されたが、徳佐郷は既に文禄2年(1592)年の古文書の内容からすれば毛利家からの指図となっている。吉見氏の知行が十分でなかったのか?
また慶長9年の以後、吉見氏の多くの家臣も帰農したり商人になっている。徳佐郷もそうである長嶺氏とか上領氏・木村氏とかが商人、農民で名前が残っている。毛利氏の家臣も藤井氏なども帰農している。
他地区でも毛利輝元の家臣達も禄が5分の1に減ったことで武士をやめ帰農や商人に多くなっている混乱の時代である。1万8千余石の国人領主から4000石になったことでやっていけず出奔した平賀一族や、返租米調達のため給領地を売ったり質入したりする家臣達もいたといわれる。年貢は7公3民と忍びがたきを忍んで新田開拓に意を注いでいたのである。20年後にはなんとか5公5民に戻っている。
参考文献 沖本博著「吉見氏とその時代」 北村知紀著「萩開府」
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