『どうするプルトニウム』(舘野淳他編、リベルタ出版、07年4月刊)を読みました。
必要に迫られて読んだのは久しぶりな気がします。
物質としてのプルトニウムの特性、とりわけその放射性毒性、そのやっかいな物質を利用する計画のつまずきから強引に推進されようとしているプルサーマルには問題点があまりに広範にありすぎます。
その根底にある根拠のない技術的楽観主義、「教科書どおり」の後進性、「核兵器を保有している疑いをもたれないため」とする外交上の要請を無原則的に科学技術政策に持ち込む問題、したがって、基礎から応用までの幅広い研究の積み重ねは排除され、政治家や官僚に都合のいい勝手な夢を描くことが政策と取られるような風潮にも鋭く切り込んでいます。
社会的影響の問題として、1954年に最初の原子力予算がついて以来の50年余にもたらされた「情報の秘匿」「世論操作」「金権体質」という3つの原発にまつわる特質は、プルトニウムが大量に出回る社会では、その傾向はいっそう強まるという指摘(第4章4節、清水修二氏)もたいへんに重要だと思います。