都内近郊の美術館や博物館を巡り歩く週末。展覧会の感想などを書いています。
はろるど
東京都交響楽団 「ショスタコーヴィチ:交響曲第8番」他
東京都交響楽団 第637回定期演奏会Bシリーズ
シュニトケ ハイドン風モーツァルト
ショスタコーヴィチ 交響曲第8番
指揮 ジェイムズ・デプリースト
ヴァイオリン 矢部達哉、双紙正哉
演奏 東京都交響楽団
2006/12/20 19:00 サントリーホールPブロック
今年最後のコンサートです。デプリースト&都響のサントリー定期を聴いてきました。曲は、一風変わったシュニトケの小品と、ショスタコーヴィチの第8交響曲です。
この日はちょうど開演10分ほど前にホールへ入りましたが、すぐさまステージを見て驚きました。何時もならおられるはずもないデプリーストが、既に指揮台の中へおさまって何やら瞑想のように目をつむっているのではありませんか。これは、一曲目のシュニトケの演奏のための一種の演出とのことですが、その静かに座る姿にしばし目が釘付けとなりました。一体、何分前からいらっしゃったのでしょうか。
さて、開演を知らせるベルが鳴りホールの扉が閉まった後でも、ステージの上にはチェロやコントラバスなどの3名ほどのメンバーが陣取るだけです。そしてライトが穏やかに消されて、客席だけでなくステージも含めてホール全体が闇へと閉ざされます。ここでようやく演奏開始です。暗闇の中をヴァイオリンの矢部さんらが歩きながら入場し、すすり泣くような美しいピアニッシモを奏でながら音楽を築き上げます。その後突如ライトがパッと灯されて、ようやくデプリーストは目が覚めたようにして指揮を振り始めるという仕掛けでした。何やらインスタレーション的です。
純度の高い弦の調べは、時折モーツァルトのト短調交響曲のフレーズを奏でながら、デプリーストのまわりをまるで幽霊のようにふらふらとまとわりつきます。開演前に配布された「本日の『ハイドン風モーツァルト』の演奏に寄せて」というペーパーによると、この曲に出現するハイドンなどの古典派音楽のフレーズは、「すでに失われたもの、あるいは浮遊するもの」と解釈して演奏されたのだそうです。とすると、この音の断片はまさにデプリーストに憑く「亡霊」です。彼はそれを振り払うかのようにして、闇雲に指揮を振り続けました。ラストはハイドンの「告別」風です。再びライトが消され、団員らが音の欠片を振りまきながら退場すると、残ったデプリーストが一人虚しく指揮をし続けている光景が浮かび上がってきます。この「無音の演奏」が重くホールへのしかかって、いつの間にやら音楽が静かに終っているのでした。(ただしこの静寂を突き破るかのような、それこそ「演奏する私たちと会場の皆様が演奏後に共有出来る空気」[パンフレットより]を無惨にも掻き乱す強烈なフライング拍手には参りましたが…。)
さてメインの第8交響曲です。こちらは率直に申し上げて、全体的に少々緊張感に欠けた演奏だったかと思います。細部こそ都響のパワフルな弦と管により立派な響きを作り上げていましたが、曲の流れや全体に見通しのきかない演奏になっていました。第一楽章の激しいドラマもピアニッシモ方向にはリズムが重た過ぎ、またフォルテ方向には響きのまとまりがなさ過ぎて、どうしても雑然とした音楽を生み出すにとどまってしまいます。またラルゴ楽章のパッサカリアも響きに研ぎすまされるような美感がなく、奇妙に鈍重な、また地に落ちて固まってしまったように動きの悪い音楽が出来てしまっていました。この部分はもう少しゾクゾクするような、それこそ刀の表面のように薄くまた冷たい響きが欲しいと思います。ともかく総じてやや解釈に迷いがあったとも思えるような、その方向性が見出しにくい演奏です。残念でした。
ちなみに、この交響曲でもやや突出したフライング拍手がホールの静寂を乱します。一曲目のシュニトケと同様、ここも寒々とした静謐な響きをホールの豊かな残響でゆっくり消していきたい箇所だっただけに、何か追い打ちをかけられたかのような気分になりました。後味も今ひとつです。
初めにも触れましたが、これで私が今年予定しているコンサートは終わりです。メモリアルイヤーということで、これまでになくショスタコーヴィチの交響曲を在京のオーケストラで聴いたように思いますが、結局キタエンコと東響の演奏が一番でした。あれで私の中にあったショスタコ・アレルギー(?)がとれたように感じます。来年以降もまた積極的に聴いていきたいです。
シュニトケ ハイドン風モーツァルト
ショスタコーヴィチ 交響曲第8番
指揮 ジェイムズ・デプリースト
ヴァイオリン 矢部達哉、双紙正哉
演奏 東京都交響楽団
2006/12/20 19:00 サントリーホールPブロック
今年最後のコンサートです。デプリースト&都響のサントリー定期を聴いてきました。曲は、一風変わったシュニトケの小品と、ショスタコーヴィチの第8交響曲です。
この日はちょうど開演10分ほど前にホールへ入りましたが、すぐさまステージを見て驚きました。何時もならおられるはずもないデプリーストが、既に指揮台の中へおさまって何やら瞑想のように目をつむっているのではありませんか。これは、一曲目のシュニトケの演奏のための一種の演出とのことですが、その静かに座る姿にしばし目が釘付けとなりました。一体、何分前からいらっしゃったのでしょうか。
さて、開演を知らせるベルが鳴りホールの扉が閉まった後でも、ステージの上にはチェロやコントラバスなどの3名ほどのメンバーが陣取るだけです。そしてライトが穏やかに消されて、客席だけでなくステージも含めてホール全体が闇へと閉ざされます。ここでようやく演奏開始です。暗闇の中をヴァイオリンの矢部さんらが歩きながら入場し、すすり泣くような美しいピアニッシモを奏でながら音楽を築き上げます。その後突如ライトがパッと灯されて、ようやくデプリーストは目が覚めたようにして指揮を振り始めるという仕掛けでした。何やらインスタレーション的です。
純度の高い弦の調べは、時折モーツァルトのト短調交響曲のフレーズを奏でながら、デプリーストのまわりをまるで幽霊のようにふらふらとまとわりつきます。開演前に配布された「本日の『ハイドン風モーツァルト』の演奏に寄せて」というペーパーによると、この曲に出現するハイドンなどの古典派音楽のフレーズは、「すでに失われたもの、あるいは浮遊するもの」と解釈して演奏されたのだそうです。とすると、この音の断片はまさにデプリーストに憑く「亡霊」です。彼はそれを振り払うかのようにして、闇雲に指揮を振り続けました。ラストはハイドンの「告別」風です。再びライトが消され、団員らが音の欠片を振りまきながら退場すると、残ったデプリーストが一人虚しく指揮をし続けている光景が浮かび上がってきます。この「無音の演奏」が重くホールへのしかかって、いつの間にやら音楽が静かに終っているのでした。(ただしこの静寂を突き破るかのような、それこそ「演奏する私たちと会場の皆様が演奏後に共有出来る空気」[パンフレットより]を無惨にも掻き乱す強烈なフライング拍手には参りましたが…。)
さてメインの第8交響曲です。こちらは率直に申し上げて、全体的に少々緊張感に欠けた演奏だったかと思います。細部こそ都響のパワフルな弦と管により立派な響きを作り上げていましたが、曲の流れや全体に見通しのきかない演奏になっていました。第一楽章の激しいドラマもピアニッシモ方向にはリズムが重た過ぎ、またフォルテ方向には響きのまとまりがなさ過ぎて、どうしても雑然とした音楽を生み出すにとどまってしまいます。またラルゴ楽章のパッサカリアも響きに研ぎすまされるような美感がなく、奇妙に鈍重な、また地に落ちて固まってしまったように動きの悪い音楽が出来てしまっていました。この部分はもう少しゾクゾクするような、それこそ刀の表面のように薄くまた冷たい響きが欲しいと思います。ともかく総じてやや解釈に迷いがあったとも思えるような、その方向性が見出しにくい演奏です。残念でした。
ちなみに、この交響曲でもやや突出したフライング拍手がホールの静寂を乱します。一曲目のシュニトケと同様、ここも寒々とした静謐な響きをホールの豊かな残響でゆっくり消していきたい箇所だっただけに、何か追い打ちをかけられたかのような気分になりました。後味も今ひとつです。
初めにも触れましたが、これで私が今年予定しているコンサートは終わりです。メモリアルイヤーということで、これまでになくショスタコーヴィチの交響曲を在京のオーケストラで聴いたように思いますが、結局キタエンコと東響の演奏が一番でした。あれで私の中にあったショスタコ・アレルギー(?)がとれたように感じます。来年以降もまた積極的に聴いていきたいです。
コメント ( 7 ) | Trackback ( 0 )
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私も1曲目のフライング拍手には参りました。あそこまでのフライングもめずらしいですよね。まだ指揮棒は止まってなかったんですが・・・。ショスタコの拍手のタイミングも早すぎたと思います。
デプリースト=都響は今年やった第5番が結構良かったので期待していたのですが、今回の第8番はデプリーストが何をしたいのか今ひとつ見えてきませんでした。
今年のショスタコNo.1コンサートは、私もキタエンコ=東響の超絶ライブです。ショスタコーヴィチ・イヤーを振り返ってみて、やはりあれは奇跡だったのだと思います。
コメントとTBをありがとうございました。
>まだ指揮棒は止まってなかったんですが・・・。ショスタコの拍手のタイミングも早すぎたと思います。
そうですよね。一曲目など仰る通り指揮棒が明らかに動いていました…。後味が悪かったです。
>今回の第8番はデプリーストが何をしたいのか今ひとつ見えてきませんでした。
5番は良い演奏でしたか。以前1番は聴いたことがありますが…。
見えてこないというのは私も同感です。
オケもよく鳴っていましたが、不思議と全体が見えてきませんでした。
>キタエンコ=東響の超絶ライブ
忘れられませんよね。
私もその演奏でショスタコに目覚めたようです!
TBありがとうございました。
う~む、はろるどさんもダメでしたか?
僕には凄まじい集中力と充実した演奏だと思えたんですが…。(^_^;)
シュニトケ→タコ8というプログラムも工夫されていて、よかったと思ったんですが。
早速のコメントをどうもありがとうございます。
>う~む、はろるどさんもダメでしたか?
今回はちょっと皆さんの賛否が分かれましたね。
私は上に書いた通りなのですが、
GAKUさんの仰るショスタコし過ぎない新鮮味というのは少し感じました。
あとはもう一歩、響きにまとまりがあれば良かったです。
>シュニトケ→タコ8というプログラムも工夫
同感です。これは良かったですよね。
天皇誕生日と同じなんですね~!
ますます充実した日々が送れますよう
ショスタコは聴けますよ(笑)
友人のピアニストは疲れるって言ってましたが、
分かる気がします。
お誕生日、おめでとうございます~
この一年もはろるどさんにとって、素晴らしい年でありますようにお祈りしております。
今年は私もショスタコを2度ほど耳にしました。
マーラーよりはまだ分かりやすいように素人耳では
感じました。
今日は、私もいろいろなマリア・ソングを聴けて
幸せでした~
「赤とんぼ」なんて日本語でアンコールで歌われるとジ~ンときてしまいますね~。
こんばんは。どうもありがとうございます。
>天皇誕生日と同じ
毎年祝日でちょっぴり嬉しいです。
>ショスタコは聴けますよ
そうでしたか。
今年は近年にないほど多くのショスタコ・コンサートが開催されたようですが、
その功績(?!)もあったかもしれませんね。
実は私も目覚めたのが今年なのですが、
もっとメジャーな作曲家になれば良いなあなんて今更ながらに感じます。
@juliaさん
こんばんは。どうもありがとうございます。
>マーラーよりはまだ分かりやすいように素人耳では
感じました。
マーラーが苦手でしたか。
私はマーラーの方がはるかに早く受容出来ましたが、
やはりちょっと敬遠してしまうかもしれませんね。
>今日は、私もいろいろなマリア・ソングを聴けて
幸せでした~
暮れにピッタリの素敵なコンサートだったようですね!
良いお年をお迎え下さい!