嘘の吐き方(うそのつきかた)

人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。

失われる前になぞる

2006年12月12日 09時03分07秒 | 駄文(詩とは呼べない)
継承する言語、破綻する言語、記憶をなぞる言語
自己分析における言語活動のうち、記憶に関する言語が一番やっかいである
結論から言えば、僕は記憶しているはずだ、という感覚を記憶している。
よって自分の言語活動が、再フォーマットされた中での記憶の再起的再生なのか、
新たに作られた言語活動なのか、それとも言語が壊れている最中の終極へと向かう単なる一過性なのか。

そのことを、感覚によってのみ、なぞる。
あるいは、読者という、分析装置の偽造構造によって。

簡単に言えば、僕の活動は、引力の中心に向かう限りにおいてオリジナルであり、
快楽の活動限界においてのみオリジナルである。
というのは、blogを例にして言えば、
過去に書いた日記は、過去に向かえば向かうほど毒にも薬にもならない
吐き気のする文章の並びであり、単なる空虚な記号であり、
意味を損失している。
書いた直後の文章は「よく書けた!」という印象を持っていても
それは記憶が失われるほど、時が経つほどに価値が薄れてゆくものだから。

しかし逆に、完全に忘れてしまえば、
それはむしろ新しいのではないかと錯覚するほど新鮮さがます。
ここにやっかいな束縛の概念が発生していて

記憶力が強ければ強いほど、人はその牢獄から抜けられない。
という不幸の構造を表してくる。

驚きとは、いつも記憶の中では訪れない。
むしろ破壊的な他者によって、間違いによって引き起こされる活動だから。
だから全てを忘れ続けるならば、
いつも僕らと彼らは毒にされされていると言えるだろう。
あらゆる空間軸に対して、永遠の別離が毒であるなら。

空間における記憶とは配置であり、永遠であり、遠ければ遠いほど
記憶としての性質は強い。
すなわち、微細化技術を例にとれば小さければ小さいほどたくさん記憶できる、
ということである。
それは忘却の構造とよく似ている。
遠いと言うだけでは他者にはならない。
失われているからこその他者なのだ。

すなわちもって、痛みを持ってしてのみ、他者は毒であるということ。
もしも他者の出会いが痛みではなく、快楽であるのなら、
それは「思い出す」という行為にとてもよく似ているのだから。

いくつかの、忘れかけた構造を持つ言語パターンがあったとして、
それをなぞることで記憶を呼び覚ますことは簡単である。
けれども、一度も見たことがない文章を読んで、
記憶を呼び覚ますことは困難である。
しかしところが、ある種のパターンというのはある空間位置から見て、
意味が解る、という錯覚を引き起こす。
そういった誤解の始まりが、ますます記憶の配列を狂わせてゆく。

キューブを例にとると、
赤い面を揃えた状態で緑の面を揃えてゆく。
緑の面が完成したとき、人はそれを赤だと思い込む。
そうやって、赤の形は失われる。
再び赤い色を揃えた時、青い色は失われる。
だから赤い色と緑の色を失わないように
青い色を揃えてゆくことが、もっとも世界を完成に近づける。

破壊、常に破壊、ただし、この世界の法則に従うこと。
死へ向けて回し続けることで、言語の生まれた場所を探す。
忠実な糸を、丁寧に編んでゆくこと。

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