老後の練習

しのび寄るコドクな老後。オヂサンのひとり遊び。

『水死』 大江健三郎

2010-01-28 00:20:21 | 文学
パソコンが壊れていくつかのデータを失いいくらかのお金が消えた。バックアップした3日後だったのでたいした被害ではなかったのだが、メールの記録とカレンダーの予定は全部消えてなくなって、それはそれで概念としては一瞬自由になった気もした。実際はぜんぜんそんなことはないのもわかった上で。真っ白の予定表なんてこんなことでもないとめったに見れない。
新しいソフトをダウンロードしている長々とした時間にこの前ニッポンで題名に惹かれて買ってきて最初の10ページだけ読んで積んだままにしていたこの本をパラパラめくっていたらジッサイに面白そうな気がしたのでグイグイ読んだ。父親の死をテーマにした小説というか、実際ジブンとジブンの家族の話であるのは明らかで、どこまでが現実でどこからがつくり話なのかまったくわからない。家族は大変な迷惑をしているだろうけど。

以前、同じようなネタでジブンも小説を書こうとしたことがあった。読んでいくうちに大江さんも同じようなキモチからコレを書き始めたんじゃないかと、それは父親とムスコという、オンナには絶対にわからないビミョーなニンゲン関係のなかで、父親と同じような死に方で自分も死ぬだろうという予感にある日襲われる。それでその死の瞬間はいったいどういうものだったのか、それを知りたいと思って、それでもそれはどうやってもわからないことだと知ってつくり話をでっちあげる。そしてその死に向かって一日一日近づいていく。そんなキモチ。ただ実際はそれを書くのを断念した話。

もう時代遅れになってしまったと自覚している老年の作家が、自分の精神の衰えが進み作家としての死が迫ってきて、コレを最後の仕事として、ジブンの父親の、終戦の翌日の水死について書こうとする。そこに脳に障害を持った息子、息子といっても40代の見るからにオッサンになったムスコと難しい関係が生まれはじめる。その関係に割り込んでくるようにジブンの田舎の家を借りて芝居を作っている劇団の、その中でなかなか語られない複雑な過去を持った若い役者のオンナが漱石の「こころ」を題材にした「死んだ犬を投げる」芝居を作り上げていく。コレだけ書くとまったく意味がわからないが。

ひとつには父とムスコの話で、ムスコを残して先に死ぬことへの怖れというか、大江さんの場合はそれは想像を超えるものがあると思うが、それを終戦の翌日に息子=ジブンに手伝わせて大水の川に小船で出て行き、そして川の底で浮きつ沈みつしながら死んだ父親の記憶に重ね合わせることでその怖れから逃れようとしているのか。それ以上に、母親の冗談がもとで大学生のときに始めた作家としての生活に終わりが来たことがわかって、ムスコのこともあるしツマも病気で入院するしジブンも地面がひっくり返るようなめまいに何度も襲われて何重もの苦しみの中でもうどうにでもなれ的なキブンで「死んだ犬を投げる」芝居でまさに死んだ犬を投げつけられる役をジブンの書く文章の中で自分に与えたのか。

もうひとつは「死んだ犬を投げる」芝居を続けることでジブンの過去を、森の中の村でかつて起こったオンナによる一揆を指揮し、その結果死んでいったひとりの女に重ね合わせようとする若い役者のオンナの話。これによる結末がワタシには理解できない部分があった。唐突で期待をあえてハズしたような内容。
全体として父とムスコの関係とか、ジブンを誰かに重ね合わせる、のり移る、みたいなことが隠れた主題としてある。

ノーベル賞作家とはいえニッポンの中では反体制を貫いて、戦争責任者である天皇からの勲章も拒否したし、広島、沖縄をめぐる言論では極右勢力を向こうにまわして裁判で勝ったりもした。何度も死んだ犬を投げつけられて、受賞後の一時期はすっかり物分りのいい爺さん風になってはいたが今また、ワタシが中学の頃に熱中して、それがすべての原因とは言わないがこういう世間となれ合うことのできない難しいニンゲンができあがって、今はこうして東南アジアの片隅で生きている、その原因となった毒のような小説に戻ったような。
いつものようにほかの創作者の一節を引いて、そういう引用をひとまとめにしてこんな切れっぱしと呼びながら、
「こんな切れっぱしでわたしはわたしの崩壊を支えてきた」という、それもまたエリオットからの引用が記憶に残った。

2009年、講談社刊。