老後の練習

しのび寄るコドクな老後。オヂサンのひとり遊び。

コリー

2009-08-03 23:11:45 | ヒト
コラソン・アキノさんとは直接会ったことはないが出身地のマニラ北部のタルラック州で仕事をしたことがあって、その頃はもうラモスさんに代わっていたのだが、車でタルラックに入るといきなりとてつもなく広いサトウキビ畑の農場が広がっていて、一緒に行った人にココがアキノさんの実家だと教えてもらったことがある。

やっぱりとんでもないお金持ちのオジョーさんだったわけだが、あの忘れもしないマニラ空港でのベニグノ・アキノ氏暗殺の後、それが独裁者マルコスのシワザだというのは誰が見ても明らかで、選挙で不正までして当選しようとしたマルコスをフィリピンの民衆が立ち上がって軍までも味方につけて、マルコス夫妻はイメルダの歌声と何千足の靴を残してマラカニアン宮殿からヘリコプターで逃げていく。あれはサイゴン陥落とかルーマニアのチャウシェスク処刑と同じくらいの歴史的な大事件だったと今でも思うが、その後大統領としてフィリピンを潰れない程度に統治した。

マルコスの亡命を引き受けたアメリカのことをやはりよく思っていなかったのか、ピナツボ山が噴火してアメリカ軍の空軍基地が灰に埋まって使えなくなったのを機に駐留していたアメリカ軍を追いだしてアメリカによる精神的占領を終わらせた。
この点ニッポンはいまだ核爆弾を投下したアメリカに占領されていて、日米安保なんかいらないとでも言おうものなら、なぜかジミン党などの戦争愛好派からもアサヒ新聞などの戦争反対派からも袋叩きに合う。核に反対しながらも北チョーセンという仮想敵国の前でアメリカの核に守られていることを肯定するという自己矛盾から抜け出せない。そういう意味でコラソン・アキノさんの最大の功績は、とりあえずアト先考えずにフィリピンを真の独立に導いたことといえる。

政治的には次のラモスさんが国を一つにまとめたと思うが、ラモスさんとは飛行機で一度一緒になって、こっちがビジネスクラスでのんびりしていたのにそこにカーテンで仕切りを作って、その中で葉巻を吸っていたのがとんでもなく迷惑だった。
そんなこんなでこのベトナムもそうなんだがヒトの名前を道路とか空港とかにつけるのはなんとなくキモチ悪い気がするが、マニラのニノイ・アキノ国際空港には今でも亡霊が漂っているように感じる。