老後の練習

しのび寄るコドクな老後。オヂサンのひとり遊び。

たつみ寿司@福岡・岩田屋

2008-07-05 17:17:34 | 料理
久々の太巻き。先々週の出張中に福岡で食べたモノ。
卵焼きがかなり大勢力を誇っていて、まわりを干瓢、椎茸、鱈のすり身、ほうれん草、三つ葉などが取り囲む。気分的にはもう少し米が食べたいところ。

たつみ寿司は本店が長浜にある、あら・ふぐ料理の店ということで、一度そういうところであら料理を食べてみたい。どういうものかわからないけど。
岩田屋では上の階に寿司屋も開いている。地下2階の店ではこの太巻きのほかに小ぶりの稲荷寿司が名物。一口でいけそうなくらい小さい。

で、クレグレも断っておくがワタシはこの太巻きがうまいから世間の皆サンにオススメしたいとか、そんなことはネコの鼻の穴ほども思っていない。もともとどこどこのアレはうまいとか、そういうことにはまったく興味がない。太巻きの類型化とでもいうか、コレクターの一種だ。もちろんうまければそれに越したことはないが。

だからウナギなら中国産だろうがベトナム産だろうがニッポンの四万十川産だろうがやばいクスリが使われてなくて、ほどほどの値段で、そこそこうまければなんでもいい。そんなことにこだわるのはメメしい。いま話題になっている食品産地偽装とか、ハッキリ言ってくだらんのだ。残飯喰っておいてさすがにキッチョーはおいしいとヨロコンデきたオバハンたちがいまさら騒ぎたてるのはジブンの恥さらし以外のなにものでもない。
テレビ見てたらスーパーに売っている食材は全部疑わしいから、ジブンで産地まで直接買いに行くという料理屋のオッサンが出てきたが、それも病的な自己満足に過ぎない。

何食べてもいつか死ぬわけで、累積したイエローカードを次の試合に持ち越しながら、混じりあうこと、消化すること、消えることだけの一生なのだ。

『混じりあうこと、消えること』 @新国立劇場

2008-07-05 09:15:25 | 演劇
夜中に虫が手の甲を這いまわるのに眼が覚めた。暗闇の中で虫は見つからず、手に残る痒みだけが現実として朝まで残った。それも今は消えて、あれはホントにあったのかさえも、、。考えてみれば記憶の全ては同じようなもので、こうして何かに書いておく以外は全部あぶくのように消えていく。
特にこんな悪い夢みたいな芝居なんて、ホントに見たのかさえ、あっという間に疑わしくなる。だからってわけでもないが、思い出しながら何か書いておこうかと。

コレはこの前見た「鳥瞰図」に続く「シリーズ・同時代」の2作目。脚本は今をときめく五反田団の前田司郎サン、演出もときめきっぱなしの白井晃サン。破綻の予感を秘めながら、いきなりすっ飛んで始まった。
喪服のオトコが葬式帰りに小さな公園に来るとオンナと若いオトコがコンクリートでできた鳥の頭のようなシェルターの中で何かしている。オンナはジブンがこの水底の町で最初の人間でアナタはもともとピラニアで私の体の一部を食べて人間になったワタシの夫だという。で、若いオトコはアナタの息子で、お父さんよ、あいさつしなさい、みたいにして話が始まる。
オトコのほうは記憶をどこかに捨ててきたと言い何も覚えていないが、それならそれでという感じで家族っぽいことを始めようとするが、家庭のダンランってなんだったっけ、みたいに、現代シャカイの中の崩壊した家族像みたいなものがテーマかと思わせながら今度はアナタのムスメよってな感じで若いオンナが登場する。
若いオンナはひもにつながれていてニンゲンにまだなりきっていないピラニアで、オトコが白い歯を見せると獲物だと思ってクビもとに食いつく。。。と、ここまで書いて話がまともじゃないことは明らかで、で、コレはナニかを小腸、いや象徴している寓話のようなものだろうという気持ちで見続けるがそう簡単には割り切れない。

オトコがオンナに、ムスコはもう死んだんだということを何度も言う。もうあきらめよう、みたいに。だから、オンナは息子が死んだショックで気が狂っておかしくなっているという設定であれば話は簡単になる。死んだ人が生きてる人と同じように舞台に出てくるのはこの前の前田サンの芝居でもあったことだ。それにオトコが誰の葬式帰りかということも、それがムスコの葬式帰りで、もう全てを忘れたいみたいになっているということであればツジツマが合う。
だがそれなのに、そうじゃない。そういう解釈をすることを拒否しているような芝居と書くと簡単すぎるが、解釈以前のところに大事なものがころがっていて、それを見てくれ、みたいな芝居なのだ。

タイトルの混じりあうことというのはセックスのことで、消えることというのは死ぬことを意味している。この辺はわかりやすい。前田サン本人の文章を読むと、一人の独立した人間として生まれたワレワレは、結局は死んで消えていくのにどうしてわざわざ他と混じりあおうとするのか、と。
家族というあぶくのような幻を産みながら人間が世代交代をしつづけることの意味というか、二酸化炭素とか、年金とか、コジキ役人の接待タクシーとか、どうせいつかは死ぬと思えばホントにどうでもいいそういうことを取り除いたところにある根源的な問題のようなものをあぶりだすことこそが芝居というゲイジュツの意味だろうというようなことを言っているようで、その辺はタイヘンわかりやすい。

白井晃サンは、演出家の役割は脚本を誤読することと書いていてなかなかの力作。オトコ役の國村隼サンもこんなんでいいんだろうか風にはみせない板についた感じで、圧巻はやっぱりオンナ役の南果歩サマで、こんなヒトにならもてあそばれても文句言いません的なカワイイ女に見えた。

2008.7.1 新国立劇場小ホール