中学生の頃だったろうか、よくテレビでバレーボールの中継を家族揃って観たものだ。
当時は、全日本の松平監督率いる男子バレーが、次々と独創的な攻撃法を繰り出して、何と1968年メキシコ五輪で銀メダル、そして次の1972年のミュンヘン五輪では金メダルを獲ってしまったのだ。
松平監督の当時のキャッチフレーズは、「速攻&コンビネーションバレー」であった。東京五輪の女子バレーも、回転レシーブなどの独創的な技を駆使して盛り上がったが、松平監督率いる当時の全日本男子バレーは、その見事なコンビネーションから様々なクイック攻撃で、ヨーロッパの強豪を翻弄していた。
今でも、当時のスター選手は記憶に残っている。横田、大古、森田、そして名セッターの猫田・・・。特に、ドライブサーブの森田が考えた「一人時間差」攻撃は、もう独創的過ぎて、はじめて見た時は何が起きたのか理解できなかったものだ。
その「一人時間差」をもう一度見たくて、youtube を検索してみたら、アップされていた。
もう、曲芸のようで、見事に相手ブロックをはずしているのがわかる。
体育の授業では、バレーボールをするたびに突き指をして、私はあまり好きなスポーツではなかったが、観戦するのは楽しみだった。茶の間では、明治生まれの祖父や、大正生まれの父たちが、もう身を乗り出して体を揺すって応援するので、日本が得点するたびに大騒ぎになったものだ。
先週、スポーツ観戦が大好きなカミさんが、一番風呂に入ってから、テレビの前を独占して男子バレーの中継を観ていたが、どうも結果が気に入らないらしく、不機嫌な日が続いていた。
私は、往時の男子バレーほど関心が無くて、横からチラッと観る程度だった。
「美川憲一みたいなのが、人気あるのか?」
カミさんに聞いてみると、「美川憲一なんていないよ・・。誰それ?」という。
これだよ、これ・・・とテレビ画面を示すと、「ああ、石川ね。彼はまだ20歳だよ。次の東京だね・・・彼は。」と、いつものように評論家みたいに言った。
私は、どうも彼のヘアースタイルが美川憲一みたいで、それが気になっていた。しかも、彼はほとんど汗をかかない体質みたいなのも気になっていた。
当時は、全日本の松平監督率いる男子バレーが、次々と独創的な攻撃法を繰り出して、何と1968年メキシコ五輪で銀メダル、そして次の1972年のミュンヘン五輪では金メダルを獲ってしまったのだ。
松平監督の当時のキャッチフレーズは、「速攻&コンビネーションバレー」であった。東京五輪の女子バレーも、回転レシーブなどの独創的な技を駆使して盛り上がったが、松平監督率いる当時の全日本男子バレーは、その見事なコンビネーションから様々なクイック攻撃で、ヨーロッパの強豪を翻弄していた。
今でも、当時のスター選手は記憶に残っている。横田、大古、森田、そして名セッターの猫田・・・。特に、ドライブサーブの森田が考えた「一人時間差」攻撃は、もう独創的過ぎて、はじめて見た時は何が起きたのか理解できなかったものだ。
その「一人時間差」をもう一度見たくて、youtube を検索してみたら、アップされていた。
もう、曲芸のようで、見事に相手ブロックをはずしているのがわかる。
体育の授業では、バレーボールをするたびに突き指をして、私はあまり好きなスポーツではなかったが、観戦するのは楽しみだった。茶の間では、明治生まれの祖父や、大正生まれの父たちが、もう身を乗り出して体を揺すって応援するので、日本が得点するたびに大騒ぎになったものだ。
先週、スポーツ観戦が大好きなカミさんが、一番風呂に入ってから、テレビの前を独占して男子バレーの中継を観ていたが、どうも結果が気に入らないらしく、不機嫌な日が続いていた。
私は、往時の男子バレーほど関心が無くて、横からチラッと観る程度だった。
「美川憲一みたいなのが、人気あるのか?」
カミさんに聞いてみると、「美川憲一なんていないよ・・。誰それ?」という。
これだよ、これ・・・とテレビ画面を示すと、「ああ、石川ね。彼はまだ20歳だよ。次の東京だね・・・彼は。」と、いつものように評論家みたいに言った。
私は、どうも彼のヘアースタイルが美川憲一みたいで、それが気になっていた。しかも、彼はほとんど汗をかかない体質みたいなのも気になっていた。
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