まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

春水が ゆっくり流れて 猿渡り

2010年01月30日 | 自然
 今日はまた、一段と暖かくてほっこりとする一日だった。我が家の梅の木にもようやく白い蕾が見えるようになった。

 

 私の住んでいるさぬき市に・・「みろく自然公園」というものがあって、先日だかに・・妙な水鳥がいる・・と書いたが、その池が「弥勒池」と呼ばれている。県道大内長尾線(通称・長尾街道)沿いの富田茶臼山古墳のすぐ南の丘陵地帯に、「弥勒上池」、「弥勒中池」、「通池(とおりいけ)今は埋め立てられてない」があり、その三つの池を総称して「弥勒池」と呼んでいた・・・。

 

 その昔・・・、この周辺から多くの石仏が掘り出されたことから、このあたりの集落を「石仏(いしぼとけ)と呼んでいた。その掘り出された石仏の中に弥勒菩薩もあったので、この池を・・「弥勒池」という名がつけられたとも伝えられている。

 この石仏は白粉石、つまりは凝灰岩で造られたもので、仏教排斥だか禁制だかで隠匿されたものだと伝えられ、この石仏を手厚く祀ったところ、池の工事が順調に進んだという。この池の築造年代は明らかではないが、宝暦五年(1755)の記録では「奥上池」となっており、三十七石という小さな池であったらしい。その後、有馬胤滋の努力によって、文政八年(1825)の隣村の松尾村砕石(われいし)谷からの掛井工事、およそ1,450間(約2,610m)、天保三年(1832)からの拡大修築工事が行われた。おそらく、このころから弥勒池と呼ばれるようになったらしい。しかし・・、水は、上池まで流れて来ず、漏水も多かったようで、「器があるが、水を盛ることができん・・」と、農民を悩ませていたらしい・・。

 

 その窮状をみた、富田中村の庄屋の軒原庄蔵(のきはらしょうぞう)が高松藩に願い出て、石穴(トンネル)工事を行い、山を貫いて隧道を掘り抜いたというのだ。ま、庄蔵さん一人でやった訳ではなくて、おおぜいの人が働いて・・掛け井手を造り替えたらしい。

 確か・・小学四年生の時の社会科の学習で・・このあたりの歴史とかを勉強したけれど、ムシロを敷いて・・そこに上向きとか横向きに寝そべって・・穴を掘った・・とかと教えられた。

 

 手ノミとげんのうひとつの時代に、なたね油のあかりを頼りに・・三ツ石山の下を掘り抜いて・・およそ105間(けん)およそ189mという大工事に、三年の歳月を要し、安政四年(1857年)に完成したと伝えられている。

 

 これが・・「弥勒石穴」の出口で、池の導入路の終端になっていて、今では石で擁壁や保護壁などで整備されている。また、国指定の文化財にもなっている。

 

 この・・池の導入部が、我が家のすぐ先にある・・。昔の「松尾村砕石谷」今の大川町砕石地区で、二級河川津田川上流になり、この少し奥、約一キロ上流に、県営大川ダムがあって、水量を調整管理している。

 

 この中央にある堰(せき)、つまりはダムのようなもので川の水をせき止め、右側の水門を経由して水路に流れ込む。通常は・・三月あたりに水路の掃除が行われ、弥勒池に導水され・・、田植え前の水田に流れ込むように運用されているらしい・・。

 

 で・・、これが我が家のすぐ横を流れる導水路・・。昔の・・掛け井手やね・・。今はしっかりとしたコンクリート製の水路になっている・・・。これが・・あの・みろく池まで流れ込む訳だ・・。

 
所在地は、さぬき市大川町富田中、池の堤高は 16.8m、堤の長さは 96m、貯水量は 37万1千トン、満水面積は 4.01ha、潅漑面積は 74haで町内最大の貯水池となっている。

じゃぁ、また。


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