さぬき市地方は気圧の谷や湿った空気の影響で雲が広がっている。夜遅くには前線の影響で雨が降り、雷を伴う所がある見込みらしい。気温は15度から27度、湿度は94%から70%、風は2mから4mの南南東の風が少しの蒸し暑い一日になった。明日の16日は、前線の影響で雲が広がり、明け方まで雨となる見込みらしい。
で、今日はまたしても「法然上人の足跡」を再確認するために、綾歌郡まんのう町にやってきた。ここは、まんのう町四條というところにある、「真福寺森跡」。正面にある農具倉庫あたりに真福寺があったらしい。今は小さな五輪塔などが残るばかり・・。正面の山が「象頭山」こんぴらさんの「旭社」がかすかに見える。
ここが、法然上人が止住したという「正福寺跡」らしい「西念寺」さん。このあたり一帯を「小松之庄」と呼んでいた。
近くにあった、セミセルフのお店でお昼になった。ここは、セルフなのか、一般店なのかよくわからない。
で、今日は蒸し暑いもんだで、「冷やかけ小」で200円・・・。あっさりと呑み込んでしまった。
で、トイレ休憩を兼ねて、ここに寄った。国道32号線、もみの木の群生から『もみの木峠』と名付けられた峠沿いにある道の駅。仲南地区は飛行機発明の祖、二宮忠八が世界で初めて飛行原理を着想した地で、駅には、忠八翁が考案した玉虫型飛行器を復元した原寸大模型を展示している。
これが、「二宮忠八飛行館」。 ライト兄弟が有人動力飛行に成功する14年前、世界で初めて飛行原理を着想した二宮忠八。子供時代から好奇心旺盛で、製図や漢文、絵画など進んで勉強していた。大空への夢を馳せながら何度も努力し続けた忠八。夢の実現に向けてカラス型飛行器や玉虫型飛行器を製作していったアイデアの発想のすばらしさに気づくとともに、各種のデジタルコンテンツなどを通して、「21世紀を担う子供達に夢見る力を育む」をテーマに展示を行なっている。(同館HPより)
これが、「玉虫型飛行器」、飛行機ではなくて、「飛行器」である。
こちらが、「カラス形飛行器」。
陸軍従軍中の1889年、「飛行器」を考案。その翌年には、ゴム動力による「模型飛行器」を製作。軍用として「飛行器」の実用化へ繋げる申請を軍へ二度行なうも理解されず、以後は独自に人間が乗れる実機の開発を目指したが、完成には至らなかった。なお、「飛行器」とは忠八本人の命名による。また、忠八の死から18年後の1954年、英国王立航空協会は自国の展示場へ忠八の「玉虫型飛行器」の模型を展示し、彼のことを「ライト兄弟よりも先に飛行機の原理を発見した人物」と紹介している。
1887年(明治20年)、忠八は徴兵され、香川県の丸亀歩兵12連帯第1大隊に入隊した。ある日(1889年11月のことという)、忠八は野外演習の休憩で昼食の弁当を取っているときに滑空して来るカラスを見て、羽ばたいていないのに気付く。そして、翼で向かってくる風を受けとめることができれば、空を飛べるのではないかと考えた(固定翼の着想)。
それを基に忠八は、「模型飛行器」を作成。これがいわゆる「烏(からす)型飛行器」である。主翼は単葉で上反角を持ち、翼幅は45cm。全長は35cm。機尾に水平尾翼、機首に垂直安定板があった。また三輪を備えていた。推進力はゴムひも(陸軍病院勤務であった忠八は聴診器のゴム管を流用した)で駆動される推進式の四枚羽プロペラであった。しかし、軍部の対応は冷たく、忠八は開発をあきらめて製薬会社を興した。
大正8年、同郷の陸軍中将白川義則と懇談後、ようやく軍部は忠八の研究を評価し、大正11年(1922年)、忠八を表彰、その後も数々の表彰を受けた。1925年(大正14年)9月、逓信大臣から銀瓶1対を授与され、大正15年5月、帝国飛行協会総裁から有功章を受章、昭和2年勲六等に叙せられ、昭和12年度から国定教科書に掲載された。すでに陸軍を退役していた長岡外史は直接忠八のもとを訪れ、謝罪した。忠八はその後、飛行機事故で死去した多くの人を弔うために飛行神社を設立、自ら神主にもなっている。
旧仲南町のマンホールである。カラス形飛行器と特産のタケノコと梅があしらってある。
今日の掲示板はこれ。「まっすぐな木はまっすぐ使え 曲がった木は曲がったまま生かせ」という、いつもの荒了寛さんの言葉から。世の中には不遇な人がいるもので、曲がった木は役に立たぬと捨てられてしまう。二宮忠八もその一人。「戦時中だから・・」と、言われ、「衛生兵の考えることではない」と却下もされた。ようやくに自費で飛行機を作り上げた時、すでにライト兄弟に先を越されていた。
じゃぁ、また、明日、会えるといいね。