深*龍宮の使いのブログ

色々なことを書いていきたいと思います、よろしくお願いします。

成功率の意味するものは?、

2008-05-21 08:49:37 | 社会
    どうもこんにちは



  (というには早いですが、今日は用があるもので、ちょっと早めに、、)


  それで、 色々みてみますと、どうやら解散総選挙はまだ先のようですね、まあそんなことではないかと思っていたので、最初から九月くらいって言ってましたから。

  ただもう実害が出ていますから、自民党の詐欺的政治はこのままでは持たないでしょう、人を騙すってのはばれるまではうまく行くけど、今のような自民党による犯罪まがいの政治が蔓延する状況では、さすがに自民党の政治は持たないでしょう、だって政治的意味をまったく持ってないんだから。


  今起きている事は、今までは企業が国民を守って、それを国が企業ごと国民に圧力をかけて、無理やり活力を出すということをしていたのだけど、 しかしその活力を出そうという圧力が高くなりすぎて、企業がもう持たなくなって企業が国民を守らなくなって、、、というのが今の状況で。

  だから今の状況でどのような手段が必要かというと、企業がが国民を守り、それに対して国家が圧力をかけて活力を出す、という考えを捨て、政府が国民支援に回るようにして、今まで圧力をかけていればよかった政府の制度から、国民の支えになるような制度に変わらないといけない、


  それは同時に政治というものが権力者から、非権力者に代わるという意味であり、自民党や役人のような、権力者として甘い汁をすする事しか知らない犯罪的な連中から見れば、自らの終わりのように見えるでしょう、


  自民党が終わっているのはこの、政治というものを権力者から非権力者への移行するという事がまったくできないからであって、彼らは政治的に完全に終わっている  
  ようは政治的な考えを変えればいいだけだが、自民党は利害があるので、それを変えれないんだろう、だから今の自民党は利権を守るぐらいしかもうやることがない、

  最近の色々あったことも変じゃないですか、例えば道路特定財源を一般財源化するのならば、どうして暫定税率を戻したのか?、そもそも暫定税率は道路建設計画に支障があるから戻しただけであり、それ以外の意味はない。 

  となると暫定税率を戻しつつ、一般財源化というのは、どこをみても間違っているだろう、結局利権を守りたいから適当なことをいっているだけで、全部嘘だろう。


  他でも、後期高齢者医療制度の負担を減らすとかいっているが、そもそもこの制度の問題点は、高齢者や障害のある人に対して治療制限をする目的を持っていることで、こういう人たちは広範囲で高度な治療が必要だから、それを制限してできなくしようというのがこの制度の目的であり、負担が問題なんじゃなくて、どっちかというと治療ができなくなることに問題点がある。


  この制度だとそういう高齢者の人が保険料を払えないと、保険証を取り上げることができるようになっているし、つまりそういう人達を死ぬしかない状況に追い込むのが狙いだといえる。、

  だからこの制度目的は、高齢者医療を不可能にして、高齢者の人たちに死んでもらって、利権を守ろうというのが自民公明役人の考えだとみていい。


  結局これも利権であって、政治じゃないんだな、だから今の政府与党の自民公明は、政治的な意味は一切なくて、はっきり言うが何の意味もなく、何もできないだろう、彼らにできるのは利権を漁るだけなのだから、冷静に見ればこいつらはただの犯罪組織に過ぎないわけで、

  それを変えるべきなんだが、解散は延ばすでしょ、これも利権のためだからね、今の日本政治は利権としてどうであるか以外の意味はない、まあだから今の政治を理解したければ、そういう視点で見てみればいいのではないかと思いますが、、、なんか日本終わってますね。。


    


  さて、それはいいとして今日は、成功率の意味するものは?、ということでも書いてみようかと、なんだか中途半端なタイトルですが、今の世の中はこうすればうまく行くという論があって、成功者の話、みたいなものが載ってたりして、こうすればうまく行く、ああすればうまく行くという論が非常に多くなってきていますが、

  しかし冷静に考えてみれば分かりますが、もし全員がうまく行く論だったら、わざわざいう必要はないですよね?、勝手に広まるわけですから、それをわざわざ広めないといけないということは、全員がうまく行く話ではないのでしょう、そういう論は。

  ではうまく行くという話でも、うまく行かない部分は常にあるわけだから、それでもうまく行くというのは話として矛盾があるのではないか?、まあそんなことを考えてみたので書いてみると。


  それで成功率の意味するものは?ということで、どちらかというとこの話は政治論的な話なのですが、主に最近言われる新自由主義や市場原理主義的な、君も成功者になろう、もしくはなれる的な論は、冷静に見てみるとほとんどの人にはメリットはないわけです。

  こういう話は宝くじと一緒で、確かに一億があたる人もいるけど、ほとんどの場合は損にしかならないわけですね、ああいうものは。

  だからこういう話を見ていると、成功者になろうというのは分るのだけど、ではその成功者にはどのくらいの確率でなれるのかというと、ほとんどゼロなわけです。


  部分論として、成功者は正しいかと考えてみると、例えば才能があってそれによってうまくいった人がいて、それで成功した人がいても誰も問題だとは思わないでしょう、

  しかしこれが全体論として成功者が正しいかというと、この場合は完全に間違ってしまう、なぜかというと成功者がいて多量の失敗者がいるという形を全体的に行ってしまうと、全体が崩壊するからです。

  物事は個人的な話と全体的な話というのがあり、個人的な正論と全体的な正論というのは、話が違う、


  個人的な正論は自己満足でかまわないが、全体的な正論は合理的なメカニズム論でなければいけない、 人の集まりは人ではなく人の集まりという、別の生物であるかのような意味を持つ、そこに於いて必要なものは、人の集まりが合理的な意味を持っているかということになる、

  となれば全体論的に見て、成功者がいるかどうかということはあまり意味がなく、成功率がどうであるか、と考えるほうが全体論的には正しい、  


  つまり政治論というのは、成功する確率の高いものを選ぶものであって、その確率とは、うまく行く人の比率が多くないといけないものであるといえる、

  そういう意味で言えば、新自由主義的な発想、成功者がいるから正しいのだという考え方は、政治論的には失格しているといえよう、新自由主義的な発想は部分論的な、成功者がいてもいいんじゃないか?、という一部的要素を持たせるという意味では、価値はあると思うが、全体論的な政治論としては間違っているといえる。

  多くの人が生きている世界と、個人的に生きている世界とでは、基本的な概念が違っている、だから全体的な意味に於いての成功の意味と、個人的な意味としての成功の意味は全然違う、 
  全体的な意味においての成功といえるのは、より多くの人がうまく行く形を作り出せたときだけで、どのくらいの人が上手く行くのか、という問いに答えられる政治論の方が、正しい政治論になるのではないかと思います。






    それでどうやらしばらくは、私も色々用事があるようなので、また来週も週一回にしようと思っています、選挙でもあれば一時的に増やしてもいいのですけど、ちょっとまだ難しいようなので、、まあとにかく次回は来週の水曜になると思います、では次回まで。