深*龍宮の使いのブログ

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理念としての方法論、

2008-01-08 13:21:59 | 私の考え方

    どうもこんにちは

 

  世の中いろいろと動いているようですけど、どれも雑多なものなので、あまり興味はわかないのですが。 そうですね、まず何を書きましょうか、じゃあまず最近書いている自民党の軍事防衛論が意味がないという話でも書いてみますか、

  私は少し前に自民党のやっている軍事防衛論は、アメリカと自民党の都合でやっているだけで、日本の防衛にはなっていないと書きましたが、なぜそう考えれるかというと、、、


  まず国家における軍事防衛論を考えるときに、いやもっと根本的に国家の生き残りを考えたときに、まず何を考えるべきでしょうか?、

  私が思うに、まず考えるべきは世界論になるのではないかと思います、つまり世の中がどうなっているかということを知らなければ、国家制度の生き残りもできないわけですから、まずこれを考えるべきでしょう。


  そしてそう考えたときに、今の世の中の世界論というものはどういうものになるでしょうか?、冷戦が終わりましたし、多極的な世界のいろいろなところに極ができて、その相関関係によって全体が総合的に動くようになり、冷戦のような共産主義か民主主義かという二元論的な世界はもうすでに存在しないわけです、

  しかしその点において今の自民党のやっていることは何でしょうか?、中国が悪だ北朝鮮が悪だと騒ぎ、アメリカが正しいという冷戦構造をなぞっているだけの、前時代的な世界観で動いているわけです、つまり自民党という組織は今の世界というものを完全に間違った形でのみ把握しているということです。
  


  そして次に国家の生き残りを考えるのならば、世界論の次には外交論が来るわけです、外交論というのは、国家と国家のつながりを話し合いや、駆け引きで調整していくもので、最初に考えた世界観を基に外交によって、国家のあり方というものを固めていくわけです、

  しかしこの点においても、自民党には外交といえるものはなく、ただ単にアメリカと付き合っていれば軍事利権があされるという、その程度の考えでアメリカとの関係を重視し、結果としてアメリカ以外の関係をどんどん破壊していったわけで、それでどうなったかというと、日本という国家のあり方というものが定まらず、非常に不安定な状況にあるわけです。



  そして最後に軍事防衛論が出てくる、これは上の二つの世界論と外交論から見て、必要だと思われる軍事力というものを考えるもので、どちらかというと最終手段というか、必要でしかたなく使う手段だといえる、

  その点においてもやはり自民党は間違っている、自民党の言っていることは軍事論のための軍事論のようなもので、その手前にあるはずの世界論や外交論は軍事論によってどうにかなると考えている、しかしそれは完全な間違いである。


  歴史を考えてみるといい、日本ならば昔の日露戦争において、なぜ日本が大国のロシアに勝ったのか?、軍事力によるものか?、全然違う、

  日本が当時のロシアに勝っていたのは何より、世界論であろう、当時の日本は鎖国から開国をし、世界を知ろうと必死になっていた、その分帝国制であったロシアよりも世界に対する認識や判断が優れていた、

  そしてその優れていた判断が、非常に日本にとって有利になる外交論を生み、結果として優れた軍事論を生んだわけだ、ま、すべてがよかったというわけではなかったようだが、少なくともロシアよりはすべてにおいて優れていたといえよう。

  しかしそれが太平洋戦争になると、軍事による外交論になり、軍事による世界論になって、すべてがむちゃくちゃになって結果日本は壊滅的な状況に陥ったわけです。


  まあだから今の自民党はほとんど、昔の二次大戦当時の軍部のようなもので、自らの生きていた世界の世界観を捨てることができず、軍事による外交や世界の変化ができるのではないか、と思っているカルト的な妄想集団になってしまったのです。

  そしてそういう連中がここ数年、軍事だ何だと馬鹿騒ぎをしているわけで、そのほとんどには意味がなく、そしてその無駄な消耗によってこの国はどんどん衰退しているわけです。  

  だからそういう形を今変えれるか、ということが日本国民に問われているわけで、自民党を潰さない限りこの国の未来はない、それは今の日本にとっては明確な事実だと思います。

 

    


  さて、それはいいとして今日は、理念としての方法論、ということでも書いてみようかと、この言葉を思いついたのは、新自由主義の政治論で小さな政府論、大きな政府論というのがあって、 新自由主義というのは政府の役割を減らして民営化を進めようという考えで、そうなってくると次第に政府は小さくなってくるわけですからそれを小さな政府論といい、 そしてその逆の性質を持っている政治論は大きな政府論というという話で、 そして今の日本の目指すのは小さな政府論だから新自由主義はあっているのだ、そういう話を聞いた時なのですが。



  私はその時に素直に別に政府が大きかろうが小さかろうがよかろう、そう考えたのですけど、どういうわけか政治論は大きな政府か小さな政府のどっちかの論でなければならない、そういう風潮が強かったのですね、
 
  で、それを見ていて思ったのが、そもそも政治論というものは具体論ではなく、理念的なものが強いわけですから、それが具体論を言っているのは変ではないか?、とまあそんなことを考えてみたので書いてみると。


  それで理念としての方法論ということで、これは主に政治論についてよく思うことなのですが、政治の理論があるのはいいのですが、しかしなぜ具体的な政治手法についてまで規定していることが多いのか?、それについて疑問を持つことが多いのです、 そもそも政治というものはその場その場の問題であり、手法的に見れば方法論などというものはなく、政治的手法を理論化するということは、根本的な間違いを生んでしまうものであって、非常に高い確率で失敗してしまうものなのではないでしょうか。


  例えば今の日本を見てみましょう、少子高齢化社会であり、社会保障等に負担がかかるわけです、そこで小さな政府をしたらどうなりますか?、国民の大半の生活は破綻して、経済も、社会も、政治も崩壊するでしょう、なぜなら人間が生きれない限り何も成立しないからです。


  人がみんな死んでしまったら経済も社会も政治も国家もない、みんな死んでしまうというのは極端ですが、生活が全体的にできなくなるのならば同じようなものなわけだから、今の日本においては手法論としては小さな政府という選択肢は最初からなく、そんなものがあるという考え自体が根本的に間違っているわけです。



  ではそんな根本的に間違っている考えが、平然と議論されそしてなぜ誰も疑問を持たないのか?、たぶんここには文系の世界観の限界があるのでしょう。

  そもそも理系の世界だと実験と理論は結構はなれたものであり、それほど一致しているわけではないのです、それが文系の人だと理論が現実的なものであるという、理論と実証の分離ということができておらず、方法論も理念として考えてもよいという、しいて言えば完全理論性のようなもの、理論ですべてが行えるというような変な道に入ってしまう。



  だから思うのですけど、なんとなく今の変な世の中の原因は、文系の人の考え方に原因があるように思うのですね、これが理系の人だったらこうなってないですよ、完全に今の政治問題は文系の人の考え方が問題になっていますね、 あくまで理念や理論というものはある程度の方向性を見るものであり、厳密にいうとそれほどあっているわけではない、だからもし新自由主義が正しいとしても、その手法論は完全に一から考えないといけないんですよ、だって新自由主義というものはある程度の方向性に過ぎないわけですから、それが具体的にどうであるかという意味は持っていない、だから本質的にいえば新自由主義で大きな政府をやっても良く、そう考えれないのならばそれは新自由主義を行っていることにはならないわけです。


  文系の考えは、宗教的であり理論と言葉による、完全性を目指す扇動的意味の強い虚構世界であると思う、正当性を持とうとするのならば、それには扇動性があり、やっていることといっていることが全然別のものになるだろう、それは共産主義にも言え、やはり文系的な視点で政治論を考えるというのは、根本的に無理であるようには見える。



  まとにかく、理念としての方法論というのは、理論と実証の違いというものを見ないで、理論の完全世界というものを信じてしまって、狂気じみた手法を行ってしまうという問題、 具体性のためには理論を否定し、理論のためには具体性を否定する、そうやってお互いを成立させている相関関係が互いにあり、理念としての方法論という考え方はその両方を潰す意味がある、


  よってこれは採用できない、どうも私には今のそういう問題、特に政治論については、根本から間違っているように思うことが多いのですが、だから今の政治に関してもたぶん一からやり直さないともうだめなような気がします、今の政治がどんどん表層化して意味が失われているのも、たぶんこれが問題なのではないかな、と思ったのでちょっと書いてみたのですが。

 

 

 


    それでは、今は週二回ですので、次回は木曜になります、では次回まで。