深*龍宮の使いのブログ

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多様性に答えはない。

2007-09-19 12:08:33 | 社会

    どうもこんにちは



  先週安部という人物がやめて、なぜか知らないが総裁選が始まっているようで、九月に入ってからずいぶんと政治が動いてきたようですが。 それで安部という人物がなぜやめたのか、ということを調べてみると、病気でやめたとなっていますがその病気がただの腹痛らしく、どうも仮病くさいようですね、 で、ほんとは何でやめたかというと週間現代という週刊誌が、安部という人物の昔の三億に及ぶ脱税を暴露して、どうやらそれが原因でやめたようです。


  政治と金の問題でやめたというのが本当らしく、まあ逃げたようですね、どうやら。 それはそれでいいのですけど、もう一つ気になるのがなぜか自民党が新しい総理を選ぶために、総裁選をやっているのかという事で、本来ならば総理が病気等で辞めた場合は代理を立てることになっており、代理を立てずに次の総理を決めているという、異常な事態が起きているようです。



  今は国会の会期中ですから、この間に新しい総理を決めるとなると、内閣の大臣も入れ替えるわけでトータルで見れば1~2ヶ月はかかるでしょう、そうなると今回の国会の会期のかなりの時間を、この新しい総理を選ぶ作業に費やされることとなり、事実上国家機能が停止してしまう、これは異常事態ですよね。


  本来ならば代理を立てて会期が終わってから、総理を選ぶのが筋のはず、仮病くさいようだが一応病気ならば仕方がないわけだから,その場合は代理を立てて国会運営が滞りなく進むようにするのが正しいわけで、国会運営をとめてまで自民党が何をしたいのか?、その辺りに疑問があるのです。


  まあそれに対し私の読みなのですが、解散総選挙の準備をしているのではないか?、そんな風に見えるのですね、代理じゃ戦えない、安部じゃ戦えない、だからそのあたりを入れ替えないといけないわけで、その入れ替え作業をやっているのではないかなあという風に見えます、 例えば妙にマスコミが騒いでいるのも将来の選挙対策、選挙の顔しての知名度アップを狙っているとか、福田という人物が有利だというのも、選挙で負けて、麻生という人物まで潰されると困るから、なんとなく人柱にしているように見えるし、



  このあたりは私の読みですけど、確か自民党の人も7月の選挙で負けて、ひとまずは安部政権で行ってそのあとに解散総選挙をすると言っていた人がいたので、そのあたりの動きがおきつつあるのかもしれませんけど、ただまあ多分安部政権が一週間しか持たなくて、そのあとドミノ倒しのように政治と金の問題が出てきて、最後に安部という人物の三億の脱税がばれて、さすがにあきらめてその解散の方向性を考えはじめたようには見えますが、たぶん最初はもうちょっともつだろうと思っていたのが計算が狂ったのでしょう。


  ただし、自民党の人は安部という人物に責任を押し付けてますけど、今だって代理を立てずに国会運営と止めているのは、安部という人物ではなく自民党なのだから、政権を放り出した安部と、国会を放り出した自民党という二つの罪が自民党にはあるはず、国家制度を軽視し自分の好き勝手をしていた安部と小泉と同様、自民党も国家軽視がひどすぎるのではないかな?、そういう国家制度に対する軽視が自民党の衰退の最大の原因であろうということに気づかないのか、国家制度を支える政党が国家制度を軽視してどうなる?、そういう意味では今起きている問題は、小泉安部という個人の問題もありますが、何より自民党という組織に最大の問題があるように思えます。

  

 


  さて、それはいいとして今日は、多様性に答えはない、ということでも書いてみようかと、今まで書いてきたことは、全体の分散化の必要性、もしくは時代の要請のようなことを書いてきましたが、ではそれがどうなるかというとはっきりとはわかりづらい、 それはなぜだろうと考えてみると、多種多様である世界というものは、同時に不鮮明な世界でもある、つまりよく見えない世界であるということ。

  では、その不鮮明な世界とは何であるかと考えてみたので、書いてみようかと。


  それで、多様性に答えはないということで、種 (種類)の増加というものは、変化の増加でもあり、その変化の増加は指数的に増加し、種の増加というものはある意味、無限の変化といってもいいような、限りない変化を生むものです。


  そしてその限りない変化は、同時に答えのなさを生み、多様性というものは表面的には、不明瞭なものになるわけです。


  それを現実的に見た場合、人というものは多様性の否定というものをしやすく、人間は単純性に惹かれ、不明瞭なものより明瞭なものを選びがちなわけです、


  しかし同時に、単純性というものは無変化状態とも言えるわけで、対処として使う場合は何もおきなけば成り立つかもしれませんが、何かほんの少しでも変化が起きれば崩れてしまう、極めてもろく脆弱なものなのです。


  つまり、本質を見れば、この世というものにはわかり易いが危険の多い単純性というものと、わかりづらいが危険を避けやすい多様性というものがあり、人はそこで大体単純性を選んでしまうという、危険な生き物であるということがいえると思います。

  
  よって、人は本来であれば、自らの本心である単純性に対する好みではなく、理解不可能な多様性のほうを選ばねばならない、 多くの歴史が語っているように、全体が単純に考えたあとに崩壊が起こることが多い、日本においても戦後の末期、日本人の多くが単純に同じに考えた結果、崩壊が来た、つまり多様性を否定したことが、戦後の崩壊の原因だったと見ていい。


  だから、多様性という答えのないものを人々は認めねばならない、それはすべてに言える。 答えのないものが正しいという、人間には理解不可能な世界ですが、それを認めねばならないし、私の見る限りこれからはその必要性は高まるだろう、


  今の世の中は、メディアの発展のせいか、答えの上に立とうとする人が多くまた、答えがないと立てないという人も多い、しかし本質的な意味において、人間は不鮮明な世界に住んでいて、不鮮明なものの上に立たねばならないところがある、もちろんすべてがそうというわけではないが、本質的にはそうである。


  そして今の日本にとってもそれは言え、多様性という不鮮明な世界の上に本来日本人も立つべきはずが、いまだに日本人はその不鮮明な世界を認めようとしない、鮮明な世界でなければ世界ではないような、そういう硬直した意見で生きている。


  だが本質はどこまでも追われるものだ、逃げることはできない、だからわれわれ日本人も本質的には、この世は不鮮明であるということを認めねばならない、明確さはある程度否定しなければならない、単純論もある程度は否定せねばならない、 そしてそうしていって、不鮮明な世界と一体化したときに初めて世界が見えるだろう、こっちのほうが正しいとわかるはず、そうすればいずれ日本も単純単一的な視点ではなく、多種多様的な始点に立てるようになり、考えも柔軟になり、そこで初めて日本人が主体的に動くことができるようになるのではないかと、思っています。

  

 

 


    それではずっと書いていたので、しばらく休もうかと思います(実はネタが尽きてしまって、、、)、なので2週間位休んで、その後書こうかと思っているので、次回は三週間後の火曜、十月の九日あたりになると思います、では次回まで。