深*龍宮の使いのブログ

色々なことを書いていきたいと思います、よろしくお願いします。

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誰のための教育か?、

2006-11-30 12:14:59 | 私の考え方
    どうもこんにちは


  最近面白いなっ、と思ったものがあって、それはセカンドライフ(http://secondlife.com/world/jp/)というオンラインゲームのような感じのもので、見た目はオンラインゲームっぽいのですが、実は目的がなくてそのヴァーチャルな世界で好き勝手するというコンセプトのものらしいです。 具体的にどうするかというとその世界の中で使えるプログラミング言語を使って、その世界で物を作って売るようなものらしく、通貨に関してはアメリカドルと交換ができるものらしいです。 よくSFでありますよね、首の後ろのコンセントのようなところに電極を刺してヴァーチャルな世界で暮らすという話が、マトリックスとか、そういう感じの雛形のようなもののようですね。 さてどうなっていくものなのかはわかりませんが、興味はわきますね。



  さて、それはいいとして今日は、誰のための教育か?、ということでも書いてみようかと、最近馬鹿な政治家が教育がどうだこうだど、ろくに教育を受けていなさそうな面をそろえて騒いでますが、こんな馬鹿な連中の話ではなく、私が今のこの国の教育に対して感じるのが、奇妙が歪みがあるのではないか?、それをいつも感じるのですね、むかし「新しい教育制度、複合単位制」というのを書いたのですが、そのときも考えたのですが、本質的な意味において日本の教育制度には歪みがあるのではないかなと感じるのです、多分のその歪みの矯正、再建ができないとこの国をよくすることもできないのではないかなと思ったので書いてみようかと。


  それで誰のための教育か?、ということで、上で書いた私が感じるこの国の教育制度の歪みとして本質的にあるのが、誰のための教育なのか?、というのが大きくずれているからではないかと思うのです。 つまり、教育制度が誰のために、何のためにあるのかというのが、制度と現実が一致していない、私の見たところだと、たとえば大学制度は制度としては、本来エリート教育のための制度のはずが、なぜか大衆化している、ほかでもそういうことはありますが、全体的に日本の教育制度は非現実的な方向性を向きながら、制度自体の力がありつつけるという歪みが発生しているように見えます。



  私が思うのは、なんというかな、多くの人がかかわるものを考えるときには、その人の流れがどうなるかというのが重要なわけですから、そういうものを考えるときは、人の循環がどうなるかということを考えることが必要ではないかと思うので、その循環の形態がどうなっているかと見てみて、日本の教育制度の歪みとしてあるなあと思うのは、どこを軸にした循環なのかということにずれを感じます、たとえば狭い世界でその中だけで循環しているような内部循環型の場合か、そうでなくて広い世界を中心とした循環の一つの管のような意味を持っいる外部循環のようなものなのか、そのあたりを考えたほうがいいと思うのです。



  それで日本の教育制度は、高校大学に関しては大衆化しているので、広い世界を中心軸にした外部循環型のものなわけですね、そしてそういう循環の中では、一つ一つのものはただの管であるわけで、それ自体の意味をあまり持ってはいけないわけです、なぜかというと全体の流れに意味があるわけですから、その一部に属している大学高校が意味を持っては全体の流れの問題になり、それは成立しないわけです、あくまで大衆化、大きな流れの中に入ったものは独自性を持たず、全体の流れにおいての己の意味のまっとうを主旨とすべきものなわけです。

  
  しかし、元来高等教育制度は、どちらかといえば内部循環型、つまり内部で生んだものをその内部でぐるぐる回すような形で成り立っていたわけです、それがよく考えもせずどこまでも拡張したため、いつの間にか大衆化された外部循環的なもの、全体の一部としての管のような立場になっていて、それでいて内部循環的な意味がまだあると錯覚している、つまり、大学等の制度自体にまだ意味があり、権威もあるのだと錯覚している。


  しかし多くの人間に対して責任責務を負う以上、制度自身の意味などもってはいけない、なぜなら責任が大きすぎるからだ、少数規模なら問題があったとしても対処できる、また内部循環で動いているのなら、そもそも目的がせまい世界なのだから、被害や問題が拡散することはない、が、大きな循環で動いているもの、多くの人がかかわってそこを流れていくものや制度は、多種多様な人間がいる以上発生する問題、責任も大きくなり、方向性も雑多になる、そしてそういう多くの人間を受け入れると判断したのなら、今までのような制度自体の権威は捨て去り、多くの人に対しての意味として、主体的ではなく、受動的な受身の姿勢に己自身を置かなければならない。



  全体的に誰のための教育か、というのは、高等教育の大衆化は、教育制度自体の主体性の剥奪を同時に要求されているということ、つまり、誰のための教育か?ととわれたとき、今までの高等教育では、制度自体のための教育という狭い循環であったが、今は規模が拡大しているので制度自体の教育というのは成立しない、あくまで全体の循環の中での管としての意味しかない、つまり全体の流れをよくする管であることを求められているように思える、ようは多くの人間がとおるところでは、その多くの人間が通ることを主軸にしなければならないということだと思います、つまりそういう人たちのための教育制度であるべきで、制度自体の意味を持ってはいけないわけです。 


  まあとにかく、私の言いたいのは、平たくいえば大衆教育をしたいのなら大衆教育にしちゃえばいいのではないかということ、中途半端に大学とか残しておくからおかしいのではないかということ、大衆化したエリート教育というのは、大衆教育としても、エリート教育としても成り立たないのだから、やめたほうがいいでしょう、このでたらめで中他半端な教育制度が、多分日本の衰退の最大の原因だと思うので、このあたりをきちっと整理しない限りは、この国の再浮上はないのではないかと思います。




    それでは今は週二回ですので、次回は来週の火曜になります、では次回まで。