深*龍宮の使いのブログ

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生存競争社会、と、平等とは何か?、

2007-05-30 12:11:37 | 社会

    どうもこんにちは



  最近松岡という政治家の方が自殺なさったようで、かわいそうなことだなあと思っていたのですが、それでそのあたりの事をいろいろいらべて見たんですが、どうも他殺っぽいんですよね、この話。 そもそも自殺とは言うけど強要して自殺させても、自殺になるわけで、自殺というのは合法的他殺でもあるわけです、だから政治家とか立場のある人が自殺をしやすいのは、心労による自殺という面もあるだろうけど、合法的他殺という意味を持っていることも多く、今回のことはどちらかというと合法的他殺のように見えます。



  何故かというと、まずこの件の関係者の方も自殺をしているらしいので、この点から見ても個人的自殺ではないのは事実であり、組織的な証拠隠滅として何かが動いたのは間違いがないでしょう、その上、この話には安部小泉とかの政治家が関わっているようで、その点かなり胡散臭い話なのは間違いがないでしょう、 そもそも松岡という人が自殺をしなければならなかったのは、大臣を辞めれなかったのが原因であり、本人は大臣を辞めたかったらしいのですが、安部という人物がそれは自分にとって損だからと、強引にとめていたようで、それが自殺の原因だったようですが、逆に言うと、


  松岡という人物をやめさせるのは安部という人物にとって損であったが、同時にスキャンダルがあるので、政治家をやり続けてもらうのも損だったわけです、つまり松岡という人物をおいつめたのは安部という人間の都合であって、そしてそれがやめさせるデメリットより、大臣を続けさせるデメリットのほうが大きくなってきたため、安部という人物から見ると、松岡という人物がかなり邪魔だったという面はあると思います、 つまりこの松岡という人物が大臣を続けてもだめ、辞めてもだめ、だから大臣を続けないようにしつつ、何らかの形でやめてもらわないといけない、少なくとも安部という人物にそういう欲求はあったはず、


  それがどうなったのかは分からないが、少なくとも松岡という人物の自殺に対し、安部という無能な政治家が無関係というのはないような気がする、大体消えた年金問題が騒動になっているときに、こういう問題が起こるのは不自然すぎるし、どう考えても作為的な扇動だろう、また松岡という人物に最後に会ったのは小泉らしい、この点から見てもどうもなんかあったようにしか見えないのだが、まあ、さすがに真相は闇の中なのでしょうね、しかしこの点から見ても、自民党が犯罪組織化しているのは確実なので、こういう連中には票を入れないほうがいいですよ、そもそもこいつら政治家じゃないようなので。 

     



  まあそれはいいとして今日は、なぜかまた二本立てで、生存競争社会、と、平等とは何か?、という二つの文章を書こうかと思っています、それでまず生存競争社会ということについて書いてみようかと思うのですけど、最近は格差社会とかそういうことをよく言われますが、それは競争的な社会になってきた結果だと説明されることが多く、まあ競争の結果格差社会になったと一般的に言われているわけです、しかし、実際に起こっていることを見る限り、その競争というものは殆どの場合、プラスの面を持っておらず、マイナスの面しか持っていないもので、そういうデメリットしか生まない競争というものはなんだろうかと考えたときに思いついたのが、今起きている競争は実は生存競争なのではないかな、と思ったので書いてみようかと。


  それで生存競争社会ということで、まず生存競争というものを聞いて私がイメージするのは、 こう、たくさんバッタがいて草を食い尽くして共食いをする、そういうイメージが強くて、例えるなら、200万匹のバッタがいて、その住んでいる草原では百万匹しか生存できず、結果としてその200万匹のバッタのうち、100万匹はもう100万匹のバッタに食われて淘汰され、安定状態になるような、そんな感じですか、そういうイメージがあります。 


  そしてそういうイメージは、今の日本に対しても同じように感じて、結局戦後の慨存権力者、自民党や財界の連中が、自らの権限の保持のために、国民に生存競争を強いている、そういう風に見えます。 今の競争というものは、国民の権利、労働者の権利等を剥奪し、国民の奴隷化のよなものを目指す競争であり、国民に対して生存競争をあおって、必死に働かせてその利益を金持ちが独占をする、つまり奴隷を使役する様な面の強い、競争であり、国民の奴隷比率の増加と、奴隷に対する懲罰の強化、そういう感じの政策をしているように見えます、まあ実際は奴隷なわけではないのですけど、図式的に見ると奴隷の使役と考えてみれば、非常に分かりやすい形になっていると思います。


  そしてそういう奴隷の使役のような方向性の強い競争は、実態としては生存競争であり、最初のほうで書いたバッタの共食いに近いものであって、最終的には暴動等の暴力に発展すると見ていいでしょう、つまり最終的に生存競争社会では、自分の生存を脅かされるわけですから、まあ最終的にはですが、何もしても良くなってしまうわけですね、自分が生きるために人を殺す、人のものを盗む、 常識で考えればこれは悪ですが、生存競争が激化すればこれも善になってしまう、そういう側面があるように思います。


  そしてそれが具体的にこの国の上で起きているわけで、確かに国民を奴隷化すれば、体制にとって一時的な利益は上がるかもしれない、しかし、最終的に生存競争というものは何でもOKにしてしまうものであり、このまま生存競争を進めていけば、体制側の人間全員の処刑は免れないでしょう、つまり、自民党、その支持者、公明党、その支持母体である創価学会、そして財界と、最近共産党の人が批判している、軍部の残党である日本会議、このあたりの人間は全員殺されると覚悟したほうがいい、まあこのまま進めばであって、さすがにそこまでは行かないだろうけど。


  まあとにかく生存競争社会というものは、今の日本で起きているものであり、その競争は一時的な利益は生むが、最終的に破滅を生むものであり、まったく持って不毛な方向性であるということ、そもそも昔書いたのですが、権力者というものは全体に対して寄生している寄生虫にすぎず、それ自体が主体になったり、中心になったりはできないということ、自分自身が副産物であることを忘れると、寄生している母体の反攻を受けでつぶれてしまう、今の日本でも権力者側が、自分にとって都合のよいような生存競争社会と作っているようだが、最終的にそれは彼らに対する反攻を生み、結果彼らは死滅してしまうということだ、


  生存競争というものは、非常の恐ろしいものであり、人を生存すれすれのレベルに落としてしまうので、その落とされた人間は、金も権力も法律も無視して突っ込んでくる、そこにはすべてがなく、そしてすべてを行おうとする、それが非常の恐ろしい、 だからそういう方向性はさすがにやめほうがいいと思う、そしてこの方向性というものはかならず失敗する以上、今の政府与党やその取り巻きには一切協力する必要がないということ、どうせ失敗するわけですから生存競争社会なんてね、だから、今の政府に対してはあまり協力をせず、冷静に見たほうがいい、下手に協力をすると生存競争の最終形の狂騒的暴動というものが発生するし、そういうものが発生したときも少なくとも被害にあわないような立場に立っておいたほうがいいと思うので、今の政府与党の方向性には関わりあわないほうがいいと思います。


 


  さて、それで二つ目として、平等とは何か?、ということでも書いてみようかと、アバウトかつ、あまりに大きなタイトルですが、まあたまにはこんなものもいいかなと、 

  それで、平等とは何か?ということで、そうですね、平等ということは等しく存在と認める、そういうことではないかと思います、自由にしろ平等にしろ、人間の思いつく理念というものは、同時に人間の限界を表しているものでもあり、つまり平等、自由、というものが正しいと感じるのは、人間にはそれができないから、それを正しいと感じる、そういう面もあると思います。


  平等というものは、私の考えですと人間というものの癖、人間というものは自分自身の思考内を世界とする生物なので、自らの思考外の世界に関しては感知できません、ですから、自分がこうだと思った世界意外はそれを何らかの形で知覚せねば、それに気づくことはないのです。 

  そしてそれは、物事や人の存在に対しても、自分の思考内に入っているものとしか考えないので、ようは自分の勝手にしか世界を見ないということになると思います、


  そしてそれがどうなるかというと、ある種自分以外をすべて否定するよな、そういう暴力的な考えになるわけです、しかしそれでは問題が起こりますし、問題がおきたときでも収拾がつかない、だからそれを解決するために平等という考え方があるのでしょう、等しく存在を認めればそれは、自分以外の存在をすべて認めることとなり、そういう形にすれば争いが起きなくなるわけです、  



  平等とは、共産主義等の考え方だと思われやすいですが、しかし実際は、共産主義は平等ではなかったと思います、確かに共産主義は不平等を正そうとした、しかし不平等を正し全体を平らにしていくだけでは、実は平等にはならない、平等とは存在を認めるということ、つまりそれは世界をありのままに認めそのうえで成り立つようにするということ、実はそういう高度な方法を要求しているのが平等なのだと思います、


  世界をありのままに認めそれで成り立つようにする、それは人間に思考内世界を捨てろといっているに等しい、だから自由に比べると平等は難しい、たぶん共産主義がうまく行かなかったのは、この難易度の差のせいではないかと思うのだが、まあなんにしろ、平等というものも自由と等しく人間には必要なものであり、共産主義がうまく行かなかったからといってなくしていいものではない、どちらかといえば自由より平等のほうが、難しい分貴重だとも言えるだろう。


  まあなんにしろ、平等というものは、自由に比べると高度である分、高次世界においては必須の方法であり、これなくしては社会は成り立たない、今の世の中で新自由主義だの何だのがはこびっているのは、ただ単に自由というのは楽な考えであり、やりやすいからだ、自由なら馬鹿でもできる、しかし自由であろうとするのならば高次世界は成り立たない、自由というものは原始世界へ逆戻る衝動であり、強い自由は低次世界を生むのが常だ、それは多くの人にわかりやすく、納得しやすいかもしれないが、同時にそういう世界では高度な考え、高度な手法というのは事実上不可能になる、自由というのは一種の衰退でもあるのだ、


  だからこそ、もしこの国を高次の国としたいのならば、平等をどうするかと考えねばならない、高いところから低いところに落ちるのはらくだ、自由とはそういうものだ、そういう自由というものが悪いわけではないが、冷戦が終わったことによりイデオロギー的な共産主義というものが、あまりに否定されている今の世界では、本来の意味の平等というものも同時に否定されつつある状態です、しかし、平等を否定すれば最初のほうで書いたように、人間が争うだけの世の中になってしまう、平等というものは世の中を治めるために必要なものであり、これがない限り全体の混沌はとまらないだろう、自己満足だけの社会にしたくないのならば、やはり平等というものももう少し考えたほうがいいのではないかと思います。

 

 

    それでは今は週一回ですので、次回は来週の水曜になります、では次回まで。