宗教病
2014-06-13 | 宗教
人に良い事だと教えられ、 人助けの為、何かの善行を行ったとします。
でも・・・この背後には大きな落とし穴が隠れているような気がします。
人に良い事だと教えられ、それを信じ、
妄信的に行った行為は、
その人の、無知 から来る行為に思えてならないからです。
無知から来る 慈善 は多くの場合、大きな害悪を垂れ流します。
‘ 慈悲 ‘ と ‘ 同情 ‘ を混同すると、結果として、人を不幸にしてしまう。
私は思います・・・
他人から教えられる ‘ 善い行い ‘ とは、 「 自分の良心 」 ではありません。
単なる 行動の提起 ・ 価値観決定の入り口 、 です。
自分の心の中から湧き上がってくる想い。
これこそが 「 自分の良心 」であり、 「 真実 」
入り口のところで何も考えず、単純な自己満足と愉悦感におぼれていると、
それに 依存する習慣 が身に付いてしまいう。
こういう人は、
単なる「 おめでたい人 」 で終わってしまう。
「 おめでたい人 」 は自分の状況を客観的に観る事が出来ず、
利用され、騙される事の連続。
もっとも・・・
たとえ、他人から教えられた事であったとしても、その、
すべてが間違っている訳ではありません。
正しい事も多くあります。
そのために、教育という制度もあります。
当然の事ながら、教育のすべてが正しい訳ではありません。
その人が最終的に信じる事は、
教わった事が 正しい ・ 正しくない という事と、
別の次元で語らなければいけないと思います。
その人にとっての「 真実 」 とは、
「 信じる ・ 信じない 」 とは別問題です。
真実 対して、「 信じる為の努力をする 」必要があるのでしょうか?
ここに、宗教の ‘ 恐ろしさ‘ ‘ 愚かさ‘ が存在していると感じます。
あるときは、宗教教団の親方が、「 ●●は、●である。 」
という教義を述べる。
親方を信じる信者は、それに従います。
自分の信念で有るかのごとく 「 ●●は、●である!! 」 と大真面目な顔をして力説する。
でも、時を経て、親方が交代の時期が来る。
次の親方が、
「 それは過去のお話、 ●●は、●ではありません。 」
と言い出す、
すると、それに従う信者は、 あれほど真剣な顔をして主張していた
「 ●●は、●である。」 という主張を簡単に忘れてしまう。
仮に、そうでなくても、 忘れるように努力する。
営利活動をする企業なら、この行為は当然な行為です。
時と場所によって臨機応変に、プライドなど投げ捨てて、
シタタカな商売して行かねばならない。
でも、心の世界、 魂の世界、 神の世界、 を探求する
宗教が行う行為とは思えません。
どうしてこんな現象が起きるのか?
私が思うに・・・・
その人たちは、 「 人から教えられた事 」 のみを信じる癖が付いていて、
自分の魂の声を聞こうとはしない。
「 何かを信じる 」 それ以前に重要な事は、
「 自分の魂の底 から湧き上がる 良心 」
「 自分の魂の底 から込み上げる 信念 」
「 自分の魂の底 から込み上げる 慈悲 」
「 おめでたい人 」 は、それらが欠如してるとしか考えられません。
真実 とは
自分の内で起きる 内面での体験 でしか語る事が出来ない。
「 内面の体験 」 なき、「 信じる心 」 これこそが、
無知と傲慢に端を発する、宗教病 に思えてなりません。
でも・・・この背後には大きな落とし穴が隠れているような気がします。
人に良い事だと教えられ、それを信じ、
妄信的に行った行為は、
その人の、無知 から来る行為に思えてならないからです。
無知から来る 慈善 は多くの場合、大きな害悪を垂れ流します。
‘ 慈悲 ‘ と ‘ 同情 ‘ を混同すると、結果として、人を不幸にしてしまう。
私は思います・・・
他人から教えられる ‘ 善い行い ‘ とは、 「 自分の良心 」 ではありません。
単なる 行動の提起 ・ 価値観決定の入り口 、 です。
自分の心の中から湧き上がってくる想い。
これこそが 「 自分の良心 」であり、 「 真実 」
入り口のところで何も考えず、単純な自己満足と愉悦感におぼれていると、
それに 依存する習慣 が身に付いてしまいう。
こういう人は、
単なる「 おめでたい人 」 で終わってしまう。
「 おめでたい人 」 は自分の状況を客観的に観る事が出来ず、
利用され、騙される事の連続。
もっとも・・・
たとえ、他人から教えられた事であったとしても、その、
すべてが間違っている訳ではありません。
正しい事も多くあります。
そのために、教育という制度もあります。
当然の事ながら、教育のすべてが正しい訳ではありません。
その人が最終的に信じる事は、
教わった事が 正しい ・ 正しくない という事と、
別の次元で語らなければいけないと思います。
その人にとっての「 真実 」 とは、
「 信じる ・ 信じない 」 とは別問題です。
真実 対して、「 信じる為の努力をする 」必要があるのでしょうか?
ここに、宗教の ‘ 恐ろしさ‘ ‘ 愚かさ‘ が存在していると感じます。
あるときは、宗教教団の親方が、「 ●●は、●である。 」
という教義を述べる。
親方を信じる信者は、それに従います。
自分の信念で有るかのごとく 「 ●●は、●である!! 」 と大真面目な顔をして力説する。
でも、時を経て、親方が交代の時期が来る。
次の親方が、
「 それは過去のお話、 ●●は、●ではありません。 」
と言い出す、
すると、それに従う信者は、 あれほど真剣な顔をして主張していた
「 ●●は、●である。」 という主張を簡単に忘れてしまう。
仮に、そうでなくても、 忘れるように努力する。
営利活動をする企業なら、この行為は当然な行為です。
時と場所によって臨機応変に、プライドなど投げ捨てて、
シタタカな商売して行かねばならない。
でも、心の世界、 魂の世界、 神の世界、 を探求する
宗教が行う行為とは思えません。
どうしてこんな現象が起きるのか?
私が思うに・・・・
その人たちは、 「 人から教えられた事 」 のみを信じる癖が付いていて、
自分の魂の声を聞こうとはしない。
「 何かを信じる 」 それ以前に重要な事は、
「 自分の魂の底 から湧き上がる 良心 」
「 自分の魂の底 から込み上げる 信念 」
「 自分の魂の底 から込み上げる 慈悲 」
「 おめでたい人 」 は、それらが欠如してるとしか考えられません。
真実 とは
自分の内で起きる 内面での体験 でしか語る事が出来ない。
「 内面の体験 」 なき、「 信じる心 」 これこそが、
無知と傲慢に端を発する、宗教病 に思えてなりません。
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