良い事をすれば、それはやがて自分に帰って来る・・・
悪い事をすれば、それはやがて自分に帰って来る・・・
人間の一生は、すべてが因果の法則で成り立っている。
これを 因果の法則 と言います。
これは 事実 です。
でも、私はこれが 真実 ではないと思っています。
「 因果の法則 」 ここで止まってしまったら・・・もう、未来はない・・・・
仮に ある人が、遠い昔に人を殺してしまったとする・・・
その人は、後悔し、反省し、自分を責め続ける・・・
でも・・・
この人は、因果の法則 から言えば、
必ずその報いを必ず受ける日がやって来る。
また、 ある人は・・・
多くの人の 生命を救った・・・・
因果の法則 からいえば・・・
この人は、必ず良い事が訪れるはずだ・・・・
ならば・・・
過去に、 悪い行い、 悪い行動 、 悪い感情、 ・・・・
という ‘ 種 ‘ を作ってしまった人は、いくら反省しようとも、
良い行いを重ねようとも、
それ相応の試練を当然の事として背負い続けねばらぬ・・・・
これが釈迦の言いたかったことなのか?????
世の中には、 徹底的に不運な人も存在する。
こういう人は、 生涯にわたり、
不運の連続・・・苦労の連続・・・苦悩の連続・・・・
これでもか!! これでもか!!! と言わんばかりに、痛めつけられる。
因果の法則が、「 絶対的な法則 」 と言うなら・・・
こういう人は、過去に犯した
「 罪の報い 」
を受けているという事になってしまう・・・
不幸や苦悩は、神が人間に課した、精算の為の処罰 なのか ?
そんな事、あるものか!!!!
「 強運 ・ 不運 と 人格との因果関係ほとんどない 」
「 運命と人格には、決定的な因果関係はない 」
これは、私が今まで、多くの人を観察して来て実感したことです。
皮肉なことに、現実は、
心が純粋な人間ほど 不幸になる事が多い。
心が 図太く図々しい人ほど、強運 。
真面目な人間より、少しイイ加減な人間のほうが強運 。
利己主義な人間でも、幸福な生涯を送る事がよくある。
奉仕の精神を持つ人が、不幸の連続であることもよくある。
善良な人に奇跡が起きず、 下品で、悪質な人間に奇跡が起きる事もよくある。
こう言ったことは、世の中をよく知っている人なら、誰でも気付いている事だ、
この矛盾に対して、 宗教は、
「 後出しジャンケン 」 のような事を言う・・・
今生は、前世の影響もあるんですよ・・・・
今生がダメでも、来生がありますよ・・・・
今生が不幸でも、死後の世界がありますよ・・・
彼方は、高級な魂の持ち主です、それ故、試練があるのです・・・
霊的背景があるんです・・・
多くの人間は、こういう手法に対して不信感を持っている。
それ故、宗教はバカにされる。
輪廻転生 の真偽は、つまる所、
信じるか ・ 信じないか ・だけの問題であり、真相は誰にも分からない。
正直いって、 わたしも、 輪廻転生を信じたい。
輪廻転生があって欲しい・・・・
これは、この世の理不尽に対する慰めとして、万人が持つ潜在願望
なのかも知れない。
仮に、前世があったと仮定して、
自分が過去に犯してきた 過ち・ 罪 に焦点を当てれば、
今生、前生、を含めれば、そのなかで自分が犯した 罪 は膨大なものになる。
全ての人間は、生きて行く上で、必ず多くの罪を犯している。
意図して犯した罪に留まらない・・・・知らずに犯した罪も計り知れない・・・・・
罪の償い ・ 遠い過去の清算 ・ としての一生を
「 これが私の人生だった・・・・ 」 と言って死んで行かねばならぬ。
こういう考え方がもし、
「 神の意思 」 「 仏の本意 」 であるなら・・・・・
神も仏も あったもんじゃない!!!!
神様とは裁判官なのか?
仏とは監察官なのか?
私が思うに・・・・・
ここまでは 宗教とは呼べない。
自然の摂理 から来る 「 個人の運命選択 」 に過ぎない。
神・仏 を持ち出すまでもなく、精神科学、心理学の領域で十分説明できる範囲内である。
同時に、このことに関して、神も 仏も 直接の関与はしていない。
現生、 過去生、 を基準にした、 因果の法則
ここで止まってしまう事に、宗教の功罪が存在するように思えてならない。
因果の法則に端を発する 善果 ・ 悪果 は
神が人間に課する 「 処罰 」 でも、「 褒美 」でもない。
自分自身 が作り出す、結果でしかない。
「 罪の清算 」 を意識した 善行をいくら重ねても、
自分が持つ 「 罪の意識 」 は絶対に消える事はない。
とはいえ、「 善行 」 と言うからには、それがムダな事とはいえない。
良い事をするに越した事はない。
私が言いたい事は、この事が、自分の背後にある
「 悪い要素 」を打ち消すものではないと言う事なのです。
借金を返すような感覚で、善行を行う事は、
個人レベルで考えれば、単なる気休めでしかない。
仮に、自分の、意識の奥にある 罪の意識に対する自覚がなかったとしても、
自分の魂の奥底にある 無意識 がそれを覚えている。
それ故、因果の法則 が働き続ける。
神は人を裁かない。
人間に襲い掛かる、不幸、不調和、不完全 ・・・
その正体は・・・・
自己処罰
裁いているのは、 実は「 自分自身 」 なんだ。
これが、 「 自分の内に宿る、自然の摂理、」
これを私は、個人レベルでの 因果の法則 と呼ぶ。
因果の法則 とは 、 その奥にある真実
神の国 仏の浄土を知るための 「 前置き 」 でしかない。
もし、因果の法則 で足を止めてしまったら・・・・
自分の人生は 「 過去に犯した罪の償い 」 となってしまう。
突き詰めて考えれば、考えるほど・・・
空しくなる・・・
それ故、私はいつも自分に対して言い聞かせる・・・
「 良い事をしたからって、何も返っては来ない・・・ 」
私にとって、良い行いとは、単なる自己満足です。それ以上でも、以下でもありません。
「 何も返って来なくても良い。 駆け引きはしない、自分の良心の声のみを恐れ、それに従う 」
人が喜べば、自分も嬉しい・・・それ以上でも、それ以下でもありません。
ならば・・・・
釈迦が説いた究極の 真理
キリストが説いた究極の 真理
神道 が示唆する 究極 の真理
とは ???・・・・・・・・・
「 因果を超越する事 」 にあり。
全ての人間は、神であり、仏である。
人間は神の自己実現 であって、完全・円満 なる存在。
命の本源は 神にあり、 仏にあり。
これを悟る事を目的に、人間は生まれて来た。
悪い事をすれば、それはやがて自分に帰って来る・・・
人間の一生は、すべてが因果の法則で成り立っている。
これを 因果の法則 と言います。
これは 事実 です。
でも、私はこれが 真実 ではないと思っています。
「 因果の法則 」 ここで止まってしまったら・・・もう、未来はない・・・・
仮に ある人が、遠い昔に人を殺してしまったとする・・・
その人は、後悔し、反省し、自分を責め続ける・・・
でも・・・
この人は、因果の法則 から言えば、
必ずその報いを必ず受ける日がやって来る。
また、 ある人は・・・
多くの人の 生命を救った・・・・
因果の法則 からいえば・・・
この人は、必ず良い事が訪れるはずだ・・・・
ならば・・・
過去に、 悪い行い、 悪い行動 、 悪い感情、 ・・・・
という ‘ 種 ‘ を作ってしまった人は、いくら反省しようとも、
良い行いを重ねようとも、
それ相応の試練を当然の事として背負い続けねばらぬ・・・・
これが釈迦の言いたかったことなのか?????
世の中には、 徹底的に不運な人も存在する。
こういう人は、 生涯にわたり、
不運の連続・・・苦労の連続・・・苦悩の連続・・・・
これでもか!! これでもか!!! と言わんばかりに、痛めつけられる。
因果の法則が、「 絶対的な法則 」 と言うなら・・・
こういう人は、過去に犯した
「 罪の報い 」
を受けているという事になってしまう・・・
不幸や苦悩は、神が人間に課した、精算の為の処罰 なのか ?
そんな事、あるものか!!!!
「 強運 ・ 不運 と 人格との因果関係ほとんどない 」
「 運命と人格には、決定的な因果関係はない 」
これは、私が今まで、多くの人を観察して来て実感したことです。
皮肉なことに、現実は、
心が純粋な人間ほど 不幸になる事が多い。
心が 図太く図々しい人ほど、強運 。
真面目な人間より、少しイイ加減な人間のほうが強運 。
利己主義な人間でも、幸福な生涯を送る事がよくある。
奉仕の精神を持つ人が、不幸の連続であることもよくある。
善良な人に奇跡が起きず、 下品で、悪質な人間に奇跡が起きる事もよくある。
こう言ったことは、世の中をよく知っている人なら、誰でも気付いている事だ、
この矛盾に対して、 宗教は、
「 後出しジャンケン 」 のような事を言う・・・
今生は、前世の影響もあるんですよ・・・・
今生がダメでも、来生がありますよ・・・・
今生が不幸でも、死後の世界がありますよ・・・
彼方は、高級な魂の持ち主です、それ故、試練があるのです・・・
霊的背景があるんです・・・
多くの人間は、こういう手法に対して不信感を持っている。
それ故、宗教はバカにされる。
輪廻転生 の真偽は、つまる所、
信じるか ・ 信じないか ・だけの問題であり、真相は誰にも分からない。
正直いって、 わたしも、 輪廻転生を信じたい。
輪廻転生があって欲しい・・・・
これは、この世の理不尽に対する慰めとして、万人が持つ潜在願望
なのかも知れない。
仮に、前世があったと仮定して、
自分が過去に犯してきた 過ち・ 罪 に焦点を当てれば、
今生、前生、を含めれば、そのなかで自分が犯した 罪 は膨大なものになる。
全ての人間は、生きて行く上で、必ず多くの罪を犯している。
意図して犯した罪に留まらない・・・・知らずに犯した罪も計り知れない・・・・・
罪の償い ・ 遠い過去の清算 ・ としての一生を
「 これが私の人生だった・・・・ 」 と言って死んで行かねばならぬ。
こういう考え方がもし、
「 神の意思 」 「 仏の本意 」 であるなら・・・・・
神も仏も あったもんじゃない!!!!
神様とは裁判官なのか?
仏とは監察官なのか?
私が思うに・・・・・
ここまでは 宗教とは呼べない。
自然の摂理 から来る 「 個人の運命選択 」 に過ぎない。
神・仏 を持ち出すまでもなく、精神科学、心理学の領域で十分説明できる範囲内である。
同時に、このことに関して、神も 仏も 直接の関与はしていない。
現生、 過去生、 を基準にした、 因果の法則
ここで止まってしまう事に、宗教の功罪が存在するように思えてならない。
因果の法則に端を発する 善果 ・ 悪果 は
神が人間に課する 「 処罰 」 でも、「 褒美 」でもない。
自分自身 が作り出す、結果でしかない。
「 罪の清算 」 を意識した 善行をいくら重ねても、
自分が持つ 「 罪の意識 」 は絶対に消える事はない。
とはいえ、「 善行 」 と言うからには、それがムダな事とはいえない。
良い事をするに越した事はない。
私が言いたい事は、この事が、自分の背後にある
「 悪い要素 」を打ち消すものではないと言う事なのです。
借金を返すような感覚で、善行を行う事は、
個人レベルで考えれば、単なる気休めでしかない。
仮に、自分の、意識の奥にある 罪の意識に対する自覚がなかったとしても、
自分の魂の奥底にある 無意識 がそれを覚えている。
それ故、因果の法則 が働き続ける。
神は人を裁かない。
人間に襲い掛かる、不幸、不調和、不完全 ・・・
その正体は・・・・
自己処罰
裁いているのは、 実は「 自分自身 」 なんだ。
これが、 「 自分の内に宿る、自然の摂理、」
これを私は、個人レベルでの 因果の法則 と呼ぶ。
因果の法則 とは 、 その奥にある真実
神の国 仏の浄土を知るための 「 前置き 」 でしかない。
もし、因果の法則 で足を止めてしまったら・・・・
自分の人生は 「 過去に犯した罪の償い 」 となってしまう。
突き詰めて考えれば、考えるほど・・・
空しくなる・・・
それ故、私はいつも自分に対して言い聞かせる・・・
「 良い事をしたからって、何も返っては来ない・・・ 」
私にとって、良い行いとは、単なる自己満足です。それ以上でも、以下でもありません。
「 何も返って来なくても良い。 駆け引きはしない、自分の良心の声のみを恐れ、それに従う 」
人が喜べば、自分も嬉しい・・・それ以上でも、それ以下でもありません。
ならば・・・・
釈迦が説いた究極の 真理
キリストが説いた究極の 真理
神道 が示唆する 究極 の真理
とは ???・・・・・・・・・
「 因果を超越する事 」 にあり。
全ての人間は、神であり、仏である。
人間は神の自己実現 であって、完全・円満 なる存在。
命の本源は 神にあり、 仏にあり。
これを悟る事を目的に、人間は生まれて来た。
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