名古屋の白ウサギ・1964年生・

別名、ウサギ仙人・・職業・会社員

因果の法則で止まってしまったら・・・

2014-06-23 | 思う事

良い事をすれば、それはやがて自分に帰って来る・・・

悪い事をすれば、それはやがて自分に帰って来る・・・


人間の一生は、すべてが因果の法則で成り立っている。

これを 因果の法則 と言います。

これは 事実  です。

でも、私はこれが 真実 ではないと思っています。


「 因果の法則 」 ここで止まってしまったら・・・もう、未来はない・・・・


仮に ある人が、遠い昔に人を殺してしまったとする・・・

その人は、後悔し、反省し、自分を責め続ける・・・

でも・・・

この人は、因果の法則 から言えば、

必ずその報いを必ず受ける日がやって来る。


また、 ある人は・・・

多くの人の 生命を救った・・・・


因果の法則 からいえば・・・

この人は、必ず良い事が訪れるはずだ・・・・

ならば・・・

過去に、 悪い行い、 悪い行動 、 悪い感情、 ・・・・

という ‘ 種 ‘ を作ってしまった人は、いくら反省しようとも、
良い行いを重ねようとも、

それ相応の試練を当然の事として背負い続けねばらぬ・・・・


これが釈迦の言いたかったことなのか?????


世の中には、 徹底的に不運な人も存在する。

こういう人は、 生涯にわたり、

不運の連続・・・苦労の連続・・・苦悩の連続・・・・

これでもか!! これでもか!!! と言わんばかりに、痛めつけられる。


 因果の法則が、「 絶対的な法則 」 と言うなら・・・

こういう人は、過去に犯した 

「 罪の報い 」 

を受けているという事になってしまう・・・

不幸や苦悩は、神が人間に課した、精算の為の処罰 なのか ?


そんな事、あるものか!!!!


「 強運 ・ 不運 と 人格との因果関係ほとんどない 」

「 運命と人格には、決定的な因果関係はない 」

これは、私が今まで、多くの人を観察して来て実感したことです。


皮肉なことに、現実は、

心が純粋な人間ほど 不幸になる事が多い。

心が 図太く図々しい人ほど、強運 。

真面目な人間より、少しイイ加減な人間のほうが強運 。

利己主義な人間でも、幸福な生涯を送る事がよくある。

奉仕の精神を持つ人が、不幸の連続であることもよくある。

善良な人に奇跡が起きず、 下品で、悪質な人間に奇跡が起きる事もよくある。


こう言ったことは、世の中をよく知っている人なら、誰でも気付いている事だ、


この矛盾に対して、 宗教は、

「 後出しジャンケン 」 のような事を言う・・・

今生は、前世の影響もあるんですよ・・・・

今生がダメでも、来生がありますよ・・・・

今生が不幸でも、死後の世界がありますよ・・・

彼方は、高級な魂の持ち主です、それ故、試練があるのです・・・

霊的背景があるんです・・・


多くの人間は、こういう手法に対して不信感を持っている。

それ故、宗教はバカにされる。


輪廻転生 の真偽は、つまる所、 

信じるか ・ 信じないか ・だけの問題であり、真相は誰にも分からない。

正直いって、 わたしも、 輪廻転生を信じたい。

輪廻転生があって欲しい・・・・

これは、この世の理不尽に対する慰めとして、万人が持つ潜在願望

なのかも知れない。
 

仮に、前世があったと仮定して、

自分が過去に犯してきた 過ち・ 罪 に焦点を当てれば、

今生、前生、を含めれば、そのなかで自分が犯した 罪 は膨大なものになる。


全ての人間は、生きて行く上で、必ず多くの罪を犯している。


意図して犯した罪に留まらない・・・・知らずに犯した罪も計り知れない・・・・・


罪の償い ・ 遠い過去の清算 ・ としての一生を
 
「 これが私の人生だった・・・・ 」 と言って死んで行かねばならぬ。

こういう考え方がもし、

「 神の意思 」 「 仏の本意 」 であるなら・・・・・


神も仏も あったもんじゃない!!!!

神様とは裁判官なのか?

仏とは監察官なのか?

 

私が思うに・・・・・


ここまでは 宗教とは呼べない。

自然の摂理 から来る 「 個人の運命選択 」 に過ぎない。

神・仏 を持ち出すまでもなく、精神科学、心理学の領域で十分説明できる範囲内である。

同時に、このことに関して、神も 仏も 直接の関与はしていない。

現生、 過去生、 を基準にした、 因果の法則  
ここで止まってしまう事に、宗教の功罪が存在するように思えてならない。


因果の法則に端を発する 善果 ・ 悪果  は
神が人間に課する  「 処罰 」 でも、「 褒美 」でもない。


自分自身 が作り出す、結果でしかない。

「 罪の清算 」 を意識した 善行をいくら重ねても、

自分が持つ 「 罪の意識 」 は絶対に消える事はない。


とはいえ、「 善行 」 と言うからには、それがムダな事とはいえない。

良い事をするに越した事はない。


私が言いたい事は、この事が、自分の背後にある 
「 悪い要素 」を打ち消すものではないと言う事なのです。

借金を返すような感覚で、善行を行う事は、

個人レベルで考えれば、単なる気休めでしかない。

 
仮に、自分の、意識の奥にある 罪の意識に対する自覚がなかったとしても、

自分の魂の奥底にある 無意識 がそれを覚えている。

それ故、因果の法則 が働き続ける。


神は人を裁かない。


人間に襲い掛かる、不幸、不調和、不完全 ・・・

その正体は・・・・

自己処罰

裁いているのは、 実は「 自分自身  」 なんだ。


これが、 「 自分の内に宿る、自然の摂理、」 

これを私は、個人レベルでの  因果の法則  と呼ぶ。


因果の法則 とは 、 その奥にある真実 
神の国  仏の浄土を知るための 「 前置き 」 でしかない。


もし、因果の法則 で足を止めてしまったら・・・・

自分の人生は 「 過去に犯した罪の償い 」 となってしまう。

突き詰めて考えれば、考えるほど・・・

空しくなる・・・

それ故、私はいつも自分に対して言い聞かせる・・・


「 良い事をしたからって、何も返っては来ない・・・ 」

私にとって、良い行いとは、単なる自己満足です。それ以上でも、以下でもありません。



「 何も返って来なくても良い。 駆け引きはしない、自分の良心の声のみを恐れ、それに従う 」

人が喜べば、自分も嬉しい・・・それ以上でも、それ以下でもありません。


ならば・・・・


釈迦が説いた究極の  真理

キリストが説いた究極の  真理 

神道 が示唆する 究極 の真理

とは ???・・・・・・・・・

「 因果を超越する事 」 にあり。

全ての人間は、神であり、仏である。
 人間は神の自己実現 であって、完全・円満 なる存在。
命の本源は 神にあり、 仏にあり。

これを悟る事を目的に、人間は生まれて来た。
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