神にすがり付きたくなるのが人情。
私も、若い頃はよく神頼みをしました。
でも、今は神頼みは一切していません。
なぜなら・・・個人的な欲望の為に、
「神頼み」する事、はリスクが大きいからです。
神様は「 民事不介入 」です。
お金が欲しいとか・・・・
成功したいとか・・・・
裕福な生活がしたいとか・・・
ハゲを治して欲しいとか・・・
モテモテになりたいとか・・・
そういった個人的な願望を神様にお願いしても、
その声は、位の高い神様に届きません。
位の高い神様、最高神とは、天照大神です。
位の高い神様は
「 万人に対して公平 」です。
神様はエコヒイキはしません。
賽銭を持って懇願して来た人間に便宜を計って、
それをしない人間に対しては知らぬふり・・・
そんな事するハズはありません。
闇雲に神頼みする事は、
神様を「 便利屋 」「 使い走り 」
と思っているようなものです。
そういった、「 貪欲 」さは、
本来自分が「真に必要としているモノ」を歪めてしまいます。
Aさんは、人一倍働き、人一倍頭を使い、
人一倍勉強し、節約しました。
Bさんは、毎日を気楽に過ごし、怠けていて、
飲み食いや、遊びに多くの金をつぎ込みました。
どちらが将来金持ちになれるでしょうか?
当然、Aさんです。
Aさんが、もし「金持ちになりたい」と、
神頼みをしたとします。
その願いは実現するでしょう。
ただ、勘違いしてはいけない事は、
神頼みをしたから夢が実現した訳ではなく。
「自分の努力と方向性が正しかった」から
夢が実現したのです。
(このこと、一点に焦点を合わせた場合の事です)
これは、神頼みをしたとしても、しなかったとしても、
それとは無関係です。
Bさんが必死に神頼みをしても、
その声は、格の高い神様には届きません。
限りなく人間の意識に近い
「 荒々しい霊 」がそれに感応して来るのです。
その「 霊 」は、霊眼のある人には見えることがあります。
でも、その姿は「ホントウの姿」ではありません。
見る人の意識によって形を変えるのです。
狐に見えたり、蛇に見えたり、カエルに見えたり・・・
観音様に見えたり・・・
如来に見えたり・・・
龍神に見えたり・・・
巫女に見えたり・・・
千差万別でが、
その姿が「 真実 」ではないのです。
これを「 神・仏 」と信じて、依存してしまう事は危険なのです。
その「 荒らしい霊 」の実態とは、
人間の欲深さ、が凝縮したような
エネルギーの集合体のようなものです。
神頼みをしたら、大金が入ってきた・・・
神頼みしたら、急に商売が繁盛し始めた・・・
神頼みしたら、ギャンブルで大もうけした・・・
神頼みしたら、株価が値上がりして大もうけした・・
こういう現象は、かなり危険な状態なのです。
なぜなら、ここような目に見えた露骨な御利益を
与えてくれる神様とは、
神格の高い神様ではなく、
「 荒々しい神様 」なのです。
「格の高い神様」は、そのようなこれ見よがしな露骨な
事は行いません。
万人を公平に、「暖かく見守る」だけです。
この根源的な神様に対して、
自分の明るく、素直で、清らかな心を
お供えすることが 「 参拝 」 なのです。
「荒々しい神様」は、御利益に対する見返りを求めてきます。
「荒々しい神様」のご機嫌を損ねるような事をしてしまうと、
受けた恩恵の、2倍になって悪い事が帰ってきます。
驚くような大成功のあと、
アッという間に奈落の底に突き落とされたというような
お話はよく耳にします。
こういう事例は、
ほとんどの場合「 荒々らしい神様 」が関与しています。
神頼みをする前に、それより遥かに肝心なことは、
「 この世に生を受ける事が出来たことへの感謝 」
「 自分が生きている事への感謝 」
この2つが、自然に出来る者に対して、
神様は、わざわざ改まってお願いされなくても、
その人にとって「真に必要なものを」与えてくださいます。
もちろん、
それに対して、見返りを要求してきたする事はありません。
「しっぺ返し」なども絶対にありません。
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