≪虚心坦懐に反省してみると、パソコンに向かっている時は文字が語りかけてくる。私の思考はディスプレイ上で展開されている。手を伸ばしてものを掴もうとするとき、掴もうと意志しているのは私の手である感じがする。他人と怒鳴りあいをしている時、怒っているのは私の口ではないだろうか。 ≫
現代哲学ではこういうのを「拡張された心」と称している。書店に行けば、「心は体の外にある」という本も販売されている。脳科学の進歩のせいか、最近では心は頭蓋骨の中にあるとかんがえて信じている人が多いように見受けられる。しかし一昔前、西洋では心臓にあると考えられていたし、日本では肚(はら)にあると考えられていたのである。
心とは一般に自分自身だと信じられているのではなかろうか? 喜びや悲しみを感じ、美しい景色を見る、痛みを感じる、それらのことはみな自分の心に映じることだと考えられている。しかし、よくよく考えてみれば、その心のありかは実は判然としないのである。親や恋人が死んだら悲しいが、自分の心のどこが悲しいのだろう? たぶん、どことは言えない。見るものすべて、聞こえる音すべてが悲しみの相貌を備えているはずだ。「私が悲しい時、世界が悲しんでいる。」のである。逆に楽しい時は、公園の花まで笑っているように見える。
このように心について考えていくと、心と心以外の境界というものがどこにもないということに気づくのである。このような視点は禅仏教にとても親和的である。道元禅師の正法眼蔵の次の一節はご存知の方も多いと思う。
仏道をならふといふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己を忘るるなり。
自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり。
自己をならふといふは、自己を忘るるなり。
自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり。
「自己を忘れ、万法に証せらる」というのは、心と心以外の境界というものが完全に無くなった状態を言うのである。 心と心以外、自分と自分以外の境界というものがなくなれば、「心」、「自分」という言葉も意味を失う。現代言語学によれば、Aという言葉はAとA以外を区別するためだけのものでしかないからである。差異がなければ言葉もまたあり得ないのである。したがって、万法に証せらるる状態では、無心であり無我というのである。
神鈴の滝遊歩道(山梨県西桂町) 記事内容とは関係ありません。