歴史を正しく受け止めるという事はとても難しい、と言うかほぼ不可能と考えた方が良いと思う。とにかくすべては伝聞なのだから、真偽のほどは分からないという事を前提にしなければならない。歴史上の人物の人物像などというものは伝聞に伝聞が重ねられたものであるから、間違っていないと考える方がおかしい。
坂本龍馬を一例にあげると、私が中高生の頃は日本史の教科書に彼の名が出てくる事はなかった。龍馬が歴史上の人物として大きく取りざたされるようになったのは、司馬遼太郎の小説「竜馬が行く」が発表されてからのことである。それ以来、薩長同盟に最も貢献した人物という評価が定着してしまった。が、彼は土佐藩を脱藩した一介の浪人である。彼に決定的力があったわけではない。あくまで薩長同盟は西郷隆盛と桂小五郎の意志によるものと見るべきである。龍馬はビジネスマンとして彼らに取り入って便利屋的な働きをしたに過ぎないと見るのが妥当だと思う。龍馬の例は、フィクションである一本の小説がその人物の歴史的評価を一変させたという典型的な例である。今では学者が歴史の教科書から坂本龍馬を除こうとしても、司馬史観に染まってしまった政治家と官僚がそれを許さないというほどになってしまった。
もし時代劇の時代考証をできる限り厳密にしたらどうだろう。おそらく視聴率は激減するに違いない。既婚の女性を演じる女優が皆お歯黒をしていたら、かなり不気味な映像になると思う。言葉遣いもおかしい。武士が町人に敬語を使ったり、夫婦の会話に至ってはまるでホームドラマのようなものもある。多分それはホームドラマなのだろう。ホームドラマなのだが、時代劇の体裁をとることによって、リアリティを無視した自由な場面設定をすることができる。時代劇の意義はそういうところにあるのだろう。
注意しなくてはならないのはそういう時代劇を通して、知らず知らずのうちに間違った時代感が植え付けられてしまうという事である。江戸時代の時代感覚は江戸時代に生きたものしか分からないし、戦時中の空気感というものは戦時中をくぐり抜けたものしか分からないのである。歴史に対する態度は冷静かつ慎重でなくてはならないと思う。