禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

何を「現実」と言うか?

2020-01-16 09:36:25 | 哲学
 以前、当ブログで「リベットの0.5秒(マインドタイム)」というものをとり上げたことがある。現代科学では、私達が見ている光景は実は0.5秒前の光景で、例えば私がパソコンに向かって今、「A」という文字をタイプしたのも実は0.5秒前のできごとであった、というような話であった。つまり私たちは、0.5秒遅れの現実を見せられているというのである。

 では私達の見ているものは現実より0.5秒遅れのモニター画面だというのだろうか? まるで、今が今でないと言われているような気がする。私たちは今ここに臨場している瞬間を「今」と呼んでいるのではなかったか、それゆえいつでも「今」だったはずである。それが現代科学によって否定(?)されている。本当の「今」は0.5秒前に過ぎ去っているというのである。これは、つねに「今」と「ここ」が起点となる禅的哲学にとって由々しき問題である。 「0.5秒遅れ」だと言うが、それは一体何に対して遅れているというのだろう。絶対時間というものがあるのであれば、何らかの基準に対して「遅れている」という事が言えるかもしれないが、正しい基準となるものが一体どこにあるというのだ? 私がまさに「今」と思う瞬間を「今」と呼んでおり、そこを起点に禅的視点というものは成立しているのであるから、「現実が0.5秒遅れ」などという事は禅的哲学では認められない。

 「リベットの0.5秒」説が正しいのであれば、私が腕を上へ上げた場合も実際は0.5秒前にすでに上がっているという事になる。では、午前9時ちょうどに腕を真上にあげることにしたとする。私は、時計の秒針を見ながら、時計が丁度9時を指すタイミングで腕を上げる。それをビデオで確認すると、時計が9時を指すそのまさに同時に腕が上がっている。しかし、「リベットの0.5秒」説によれば、私が腕を上げようとして「今だ!」と意識した瞬間は腕が上がってしまった後であるというのだ。

  では一体、私の腕を上げたのは誰 ?

 学者によれば、それは私の脳であるという。私が「今だ!」と意識する0.5秒前に私の脳が「今だ!」と判断したというのである。はぁ。でも私の脳の判断を0.5秒後に報告される「私」って一体誰なの? つまりは、私の脳は私より偉いという事なのか?

 禅的哲学においては以上のようなことを、そのまま鵜呑みにするわけにはいかない。禅的視点においては、現前している光景そのものを現実としているからである。科学はその現前する原事実をもとに構成した単なる記述・説明に過ぎない。 例えば、目の前に固くて重い鉄の塊があるとする。それはとても稠密で堅牢で重い。しかし科学者は言う、「この鉄は稠密で重いけれど、これを構成している原子の原子核も電子も、原子の大きさに比べればとても小さくて、原子の大部分は真空だから、この鉄の塊も本当は中身がスカスカなんですよ。」と。だが、この中身がスカスカの原子モデルというのは、もともとこの稠密で固くて重い鉄を説明するためのものだったはずである。現実というものは、そこに稠密で固くて重い鉄があるというそのことである。

 あくまで、科学は現実を説明するためのものであったはずである。禅的哲学では、まず現実があってそこからそれを説明するための理論が生まれる、と考える。理論があってそこから現実が導かれるのでは決してない。腕を上にあげるのは私の自由意志によるのである。立ちたいときに立ち座りたいときに座る、それがもともとの自由の意味である。脳が私より偉い訳ではない。私が判断するのであって、脳が判断するのではない。脳も神経もリベットの0.5秒も、原事実たる私の意志や意識を説明するための記述または仮説という構成物に過ぎないのである。現前する今という瞬間こそ現実であるという事を忘れてはならないと思うのである。

( 横浜 掘割川 美空ひばりの生家はこの近くにある。)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 関係の絶対性 | トップ | 歴史は創られる »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

哲学」カテゴリの最新記事