ひと頃、機械論的運命論というものが流行ったことがある。この世界の全ては原子とか素粒子というものでできていて、それらが物理法則に支配されているかぎり、すべては物理法則に従って変化する筈である、という考えである。人の精神もすべて脳内の物理現象に還元されてしまうので、人間には本当の自由などというものはなく、すべての運命は物理法則によって決定されている、と言うのである。だとすると、我々は自分が自由に行動しているつもりでも、それはあらかじめ決定されていて、実は機械のように動いているだけだという事になる。そこにはもう自由意志などというものはない、何をやるにしてもあらかじめ決まっていたことをなぞっているだけなので、何をやってもそこに責任などというものはないという事になる。
量子力学という分野の不確定性理論というものができてからは、どうやら運命は決定していないのではないかという話になっているらしい。超ミクロの世界では粒子の運動は厳密に確定されることはなく、確率論的なのだという。だから「未来は決定していない」のだと言うのである。しかし、この話はあやしい。我々の意志決定が確定しているわけではなく確率論的である、と言われたところで物理法則に従っているだけであるという事には変わりがない。
禅的哲学ではこの問題をどのようにとらえるか? 禅的視点というものはつねに「只今即今」というところから出発する。現前する現実が唯一の実在である。先日採り上げた記事でも述べたように、「理論があって現実があるのではなく、現実があって理論がある。」と考えるのである。我々の目の前には既に差し迫った現実が現前している。その現実を前にして「われわれの運命は決定されている」などと他人事のようにのたまう運命は禅者には課せられていないのである。もしあなたが機械論的運命論を信じているとしたら、それは気の毒な運命であると言うしかない。
私は科学が間違っているというようなことを述べているのではない。科学はある意味で正しいのである。確かに私たちは因果というものを昧ますことはできない。どうしようもない宿業という考え方も仏教にはある。ある意味において、私たちは責任を問われることもないのである。しかし、我々個人はつねに実存的生き方を問われる存在者でもある。無門関第二則「百丈野狐」 の真底はそういうところにある。