「人は何のために生きるのか?」と問われると、へそ曲がりな私は、目的がなきゃ生きていてはいけないのか?と問い返したくなる。
以前の記事でも述べたが、言葉には機械的に運用されるという欠点がある。ことばが意味をもつためには文法にかなっているだけでは駄目である。自分が何を求めているかがわかっていなければ、問いは本来発することはできない。意味のわからないまま問い発したい場合は、改めてその衝動がどこから来ているのかを問い直さなくてはならない。
多感な若者が、自分の欲望の正体を見極めることができず、ただ焦燥感にかられる時、この言葉を発するのだろうということは理解できる。しかし、この問いに対する解決の糸口はつかめないのである。こんな時、若者は大抵思考停止に陥っているとみて間違いない。
人はなにかのために生きるものではない、人は本来生きるために悩み苦しむものである。
ま、こんなことを浅薄なアマチュア哲学者ごときが申し上げてもあまり説得力を持たない。ここは偉大な先達フランクルの名著「夜と霧」の言葉を借りることにしよう。
ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。私たちが生きることからなにかを期待するのではなく、むしろ生きることが私たちから何を期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、私たち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。私たちはその問いに答えを迫られている。考え込んだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を満たす義務を引き受けることに他ならない。
この要請と存在することの意味は、人により、また瞬間ごとに変化する。したがって生きる意味を一般論で語ることはできないし、この意味への問いに一般論で答えることもできない。ここにいう生きることとは決して漠然とした何かではなく、つねに具体的な何かであって、したがって生きることが私たちに向けてくる要請も、とことん具体的である。この具体性が、ひとりひとりにたった一度、他に類を見ない人それぞれの運命をもたらすのだ。
(P.129 フランクル著「夜と霧」 池田香代子訳-みすず書房)
誰よりも真摯に人生に向き合った人の言葉である。そこにはいささかの曖昧さもない。過酷な運命を通り抜けた精神の結晶がある。我々は人生に対し問う立場にはない、われわれが人生から問われているのである。人生からの要請に対し、具体的に悩み具体的に行動する、それが生きるということであるとフランクルは言っている。漠然とした問いを投げかけている場合ではないということだろうと思う。
「夜と霧」新版の池田香代子さんの訳はとても読みやすくて素晴らしい。どなたにも一読を是非々々お勧めしたい。
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