禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

私は男でもありまた女でもある

2015-04-02 07:59:56 | 哲学

 実は私は癌細胞をもっていて、現在ホルモン療法をやっているのだか、そのため少し乳が膨らみかけていることに悩まされている。このことから、私は男でありながらまた女の属性をあわせ持つものである、ということを思い知らされるのである。男と女は決して別物ではない同根である。位相幾何学的にはそれらは全く同じ形をしているという学者もいる。ホルモンの分泌の具合で少なくとも外見的には、私は男にも女にもなりうるのである。

私は決して、「男」と言う設計図に従って製造されたものではない、これは偶然なのだ。自然(あるいは神)は、男や女や人間に限らず、実はいかなる設計図(イデア)も持ち合わせていない。

男のイデアがないということは、「男」の厳密な定義は存在しないということである。龍樹なら、「私が男である」というのも、さまざまな関係性の中で一見成立しているかのように見える仮象に過ぎない、と言うだろう。

もう少し龍樹の縁起説について述べてみよう。縁起の意味については、その漢語のニュアンスから時間的な因果関係も含まれているという説もあるらしいが、私は中村元博士の「相依性」説の立場をとる。「相依性」とは物事はものとものとの関係性であるという説である。例えば、善は善として独立に存在するものではなく、悪と言うものがあって初めて善が成立するというようなことである。

この「独立に存在する」ということを「自性をもつ」と言うのであるが、「なにものも自性を持つものは存在しない。」というのが龍樹の縁起説である。

そこであなたの脳裏には、「ものとものとの関係性」と言うならその関係性のもととなる質料としての「もの」が存在するのではないか、と言う疑問がわくかもしれない。だが、龍樹の縁起説は徹底していて、その「もの」もまた何らかの関係性によって成立しているとみられる「仮象」であるというのである。

西洋哲学ではかつてすべての質料は「原子」と言う究極の粒子に還元されると考えられていた。しかし科学の進歩によりその原子もより小さな素粒子からなることが分かった。その素粒子もまた崩壊し別の素粒子と運動エネルギーに変化し究極の要素に到達することはないのである。アインシュタインによればすべての質量(質料)はエネルギーに還元されるということらしいが、ではそのエネルギーが究極のものかと言うとそうでもない。エネルギーそのものはどこにも存在しないのである。エネルギーは何らかの素粒子とその運動エネルギーとしてしか存在し得ない架空のものである。物理の世界にも自性をもつものは存在しないのである。

私は科学の成果によって龍樹の説を補強しようとしているのではない。逆に、龍樹は物理学を知らずとも、人間の思考過程というものを見抜いていたと言いたいのである。

 

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