天動説も地動説も実は同じことを意味していると言ったら、大抵の人は不審に思うだろう。20世紀になって、言語哲学者が「天動説と地動説は、同じことを違う言葉で表現している。」というようなことを言い出した。しかし、禅者にとってはそんなことも大した問題ではない。そもそもそんな問題自体が存在しないのだ。
今回は禅の公案集である無門関から六祖慧能に関するエピソードを取り上げることにする。六祖というのは達磨大師を禅宗の始祖として第6代目であることを意味する。六祖慧能大師は門下からすぐれた人材を多く生み出した禅宗においてとくに重要な人物である。
風にはためいている幡(はた)を見て、二人の僧が言い争っていた。
僧A 「あれは幡が動いているのだ。」
僧B 「違う風が動いているのだ。」
そこにちょうど、六祖慧能が通りかかり、次のように述べた。
「風が動いているのではない、幡がうごいているのでもない。
お前たちの心が動いているのだ。」
さらに「無門関」の編者である無門慧開が次のような解説を加えている。
「風が動いているのではない、幡がうごいているのでもない、
心が動いているのでもない。六祖の真意は何処か?」
「心が動いている」というのは、己事究明をもっぱらとすべき禅僧がくだらないことで言い争っているのをたしなめる言葉であろう。しかしそれだけだとこの公案はただの生活態度における教訓ということになってしまう。無門慧開は「心が動いているのでもない。六祖の真意は何処か?」とさらに問うているのであるから、もう一歩踏み込んで積極的な意味を探る必要がここには有るはずなのである。
二人の僧はともに同じ光景を見ながら、そして事実関係においても同じ認識をもちながら、幡が風がと言い争っている。実はそこに禅者が追求すべき問題はありはしない。禅者にとって、頭で考えた世界像はすべて架空のものであるからである。
天動説にしろ地動説にしろ、慧能大師に言わせれば、頭の中で天や地を動かしているだけであるということなのである。実際はどうかと言うと「見た通り」なのだ。朝は東の山の端から昇る朝日に手を合わせ、そして西の海に沈む夕日に感じ入る。それこそが世界の実相であり、平常底に生きるということなのだ。天動説や地動説をバカにしているわけではない。もちろん科学者はそういうことに徹底的にこだわるべきなのだが、世界の実相というものはそこにはないということを、わきまえねばならないということなのである。
あくまで天動説も地動説も我々の平常の世界を説明するための方便なのである。
鉄の塊は固くて重くそして調蜜であるにもかかわらず、科学者は「鉄の原子は小さな格の周りをさらに小さな電子がまわっていて、そのほとんどの部分は真空のスカスカである。」などと言う。しかし、そのスカスカの原子というのは、鉄が稠密で固く重いということを説明するために、考え出された方便であるということを忘れるべきではない。
あくまで禅者にとっての真実というのは、現前しているありありとした事実以外にはあり得ないのである。「あるがまま」を受け入れるというのはそのことである。
ときに哲学者などは、「いま君が夢を見ていないとどうしていえるのか?」などと言い出すが、六祖慧能にそんなことを言ったら、「だから?」と聞き返されるのがオチだ。これが夢であろうがなかろうが、我々にはいまここのありありとした現実の世界を生きるほかはないのである。夢なら夢でまた覚めたときにあらためて考えればよいのである。
(参考 ==> 「公案インデックス」)