禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

分けると分かる

2023-11-07 06:27:04 | 哲学
 先月は、「論理とはなにか? 」に始まる八回のシリーズで、ロゴス中心主義とそのアンチテーゼとしての仏教的中道思想について解説したつもりだったが、中心テーマになる後半になると閲覧回数が激減してしまった。自分ではかなり力を注いだつもりだったが、もしかしたら独りよがりで稚拙な解説をしてしまったかもしれない。少し未練が残るので、もう一度簡単にまとめてみたい。

 「分かるとは分けることだ」という言葉がある。もともと「分かる」の語源は「分ける」からきているらしい。まさにこれは核心をつく言葉だと思う。ロゴス中心主義においては「分かる」と「分ける」はほぼ同義と言ってもよい。「ソクラテスは人間である」と言った時、ソクラテスを人間と人間以外に分別しているのである。もちろんいろんな分け方がある。それは男か女か、ギリシャ人であるかどうか、哲学者であるかないか、とより細かく分けていけばいくほどそれが何ものであるかを分かった、つまり理解したことになる。

 もちろんこのように分けて理解するということは必要なことである。それがなければ科学も進歩しないし、日常生活の段取りもうまくいかない。龍樹もロゴス中心主義の全てを否定しているわけではない。ただ一点、絶対的な分類の基準は存在しないということだけは忘れてはならないというのである。前にも述べたが、人間と人間以外を区別する客観的な境界というものは存在しない。繰り返して言うが、人間そのものという本質は存在しない。なにものもそれだけで独立して存在しているものはない、あくまで人間以外のものとの関係性においてはじめて人間という概念が成立するのである。絶対的な基準がない以上、そこにはどうしても恣意というものが入らざるを得ない。それ故、分けるということはあくまで便宜上の方便であって、絶対的なものではないことを忘れてはならないのである。
 
 ところが人は往々にして、便宜上の分類を絶対的なものと思い込むことがある。ヒットラーは「アーリア人たるドイツ人こそ最優秀な民族で、ユダヤ人は劣等民族である。」と考えていたらしいが、彼自身がアーリア人がなんであるかを分かっていたかどうか極めて疑わしい。(「アーリア人」というのは元々は学術用語で、インド‐ヨーロッパ語族の諸言語を用いる人種の総称であったはず。) 彼の考えている「アーリア人」の本質などというものはもともとどこにも存在しないのだ。ところがヒトラーにとっては、アーリア人とユダヤ人の区別は絶対的なものである。その行き着いた先がホロコーストである。区別がイデオロギーを生みだし、それが深刻な信念対立となりうることを忘れてはならない。

 現在パレスチナでは、イスラエル軍がガザに侵攻している。イスラエルはハマスとの戦争であるとしているが、現時点ではイスラエル軍が圧倒的な軍事力でもって一方的な殺戮行為を行っているとしか見えない。しかも殺されていく人の約半数が子どもだという。一人のテロリストを殺すためにその何倍もの非戦闘員を平然と殺戮する。そんなことが許されて良いわけがない。イスラエルもヒトラーがかつて行った反ユダヤ主義と同じことをやっているのである。イスラエルではユダヤ人とアラブ人の区別は絶対的である。イスラエルではアラブ人は二級市民に過ぎない。ユダヤ人には子供を沢山産むことを奨励している一方で、アラブ人には産児制限を課す。そういう不平等を公的に課しているのである。そういうあからさまな不条理を公的法制度に持ち込まなければ維持して行けないような国家に果たして存在価値があるのかどうか疑問である。
 
 全ては人と人を区別することから始まっている。言葉と論理による区別がイデオロギーを生み出し、それが人々の分断を正当化するのである。言葉によるイデオロギーを信用しすぎてはならないというのが仏教の中道思想である。
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