ジム・ホルトの「世界はなぜ『ある』のか?」を2カ月前から読み始めて、今やっと最終章にたどり着いた。この頃は頭も目も悪くなったせいで、すっかり遅読になってしまった。とても面白い本なのでとにかくここまで持続することができた。
最終章のタイトルは「無への回帰」である。私は偶然生まれた。しかし、私の死は必然であると考えられる。ここで紹介されているゲーテの言葉が興味深い。
「考える存在が、自分が存在しないことや、その思考や命が終わることを考えるのは絶対に不可能だ。」
どのくらい不可能かと言うと、たぶん、なにが不可能であるかということを言っていることの意味がゲーテ自身がわかっていない、それほど不可能なのだと思う。それで、ゲーテは続けてこうも言っている。
「この限りにおいて、誰もが自らのなかに意図せずして、自分が永遠に存在する証拠をもっている。」
ジム・ホルトも否定しているが、残念ながらそのような証拠はだれも持っていない。ゲーテは「考えるのは絶対に不可能だ。」と自分で言いながらも、考えてしまったからそうなったのだろう。自分の死後を想像することは、ウィトゲンシュタインの言う「他人の痛みを想像する」ことと同じ性質の難しさがある。他人の痛みをいくら想像しても、実は自分の痛みを想像してしまう。同様に、自分の死後をいくら想像してみても、実は想像する自分が生きているのである。
だから、「自分の死後を想像する」ことなどできない。私達には「自分の死後を想像する」という言葉の意味を理解することさえできないからである。
※参考記事 =>「死は人生のできごとではない」