禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

死は人生のできごとではない (その2)

2018-09-04 06:12:27 | 哲学

ジム・ホルトの「世界はなぜ『ある』のか?」を2カ月前から読み始めて、今やっと最終章にたどり着いた。この頃は頭も目も悪くなったせいで、すっかり遅読になってしまった。とても面白い本なのでとにかくここまで持続することができた。 

最終章のタイトルは「無への回帰」である。私は偶然生まれた。しかし、私の死は必然であると考えられる。ここで紹介されているゲーテの言葉が興味深い。 

「考える存在が、自分が存在しないことや、その思考や命が終わることを考えるのは絶対に不可能だ。」 

どのくらい不可能かと言うと、たぶん、なにが不可能であるかということを言っていることの意味がゲーテ自身がわかっていない、それほど不可能なのだと思う。それで、ゲーテは続けてこうも言っている。 

「この限りにおいて、誰もが自らのなかに意図せずして、自分が永遠に存在する証拠をもっている。」 

ジム・ホルトも否定しているが、残念ながらそのような証拠はだれも持っていない。ゲーテは「考えるのは絶対に不可能だ。」と自分で言いながらも、考えてしまったからそうなったのだろう。自分の死後を想像することは、ウィトゲンシュタインの言う「他人の痛みを想像する」ことと同じ性質の難しさがある。他人の痛みをいくら想像しても、実は自分の痛みを想像してしまう。同様に、自分の死後をいくら想像してみても、実は想像する自分が生きているのである。 

だから、「自分の死後を想像する」ことなどできない。私達には「自分の死後を想像する」という言葉の意味を理解することさえできないからである。

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