禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

「あるがまま」を理詰めで考えてみる

2013-12-23 17:49:50 | 哲学

以前私が通っていた哲学塾カントの中島義道先生が、哲学で必要なのは『よく見る』ということだ、と仰っていたような気がする。注意深く見ないと、人は見ていないものまで見たように思いこむことがある。これをウルドクサという。

ある方のブログを拝見していて、次のような記述を見かけた。この記述の中にどのようなウルドクサが潜んでいるか検討してみよう。

≪この綺麗な公園や、川や水の流れる音は、すべて実体をそのまま感じ取れるわけではなくて、景色は物体が反射した光子を目の網膜が、音は空気の振動を鼓 膜が受け取って、それぞれが脳で映像や音として処理されて「存在」しているのであって、つまり存在しているのは世界側にではなく、私の内側に存在している のだと気づいた。だからこの川の音も、美しい景色も、すべて自分なのだとお思った。これは自分にはちょっとした発見で、自分というのはこの思考や気分や感 覚のことかと思っていたのだが、世界すべてが自分なのであった。≫

「世界すべてが自分なのであった。」という結論はともかく、それを導くために科学的知見を使っているということがひっかかる。「科学は仮説によってできている」というのは既に常識である。しかも一般人にとってはそのほとんどが伝聞に過ぎない。「‥反射した光子を目の網膜が‥」とは言っても、言っている本人が光子を確認したわけではない。

注意深く反省すれば、見ているのは「景色」であって決して「光子」ではないということが分かるはずだ。「光子というものがある」というのは単なるうわさにすぎないのである。「脳で映像や音として処理され‥」というのも、学校で先生から聞いたことをそのまま信じているだけのことである。

科学的知見が正しいとしても、問題は残る。この人は、精神活動が脳内で行われることを根拠にして、すべての現象は自分の内側のことだとしている。しかし、この内側だとか外側だという感覚も脳内で作られたイメージにすぎないということに気がつかなくてはならない。なにか説明が循環しているような気がしないだろうか?

そこには色も匂いも音もない世界を実在として、それらを認識の外に追いやっている。私たちが見ているのはそれらの実在の影であり、その影は脳内で生じているものである、と考えているのである。

 しかし、すべてが脳内で構成されているのなら、そこで構成されている外側・内側の意味も脳内の世界において意義をもっているのではないか、と私などは考えてしまうのだがどうだろうか?

 ここで私が指摘したいのは、先ず科学法則があってそれによって世界を「哲学的に」解釈することには問題があるということである。科学法則は現実から帰納されたものであり、現実に先だってあるものではないということである。

 ニュートンが万有引力を発見して以来、小学生でもリンゴが木から落ちるのは万有引力があるからだと知っている。科学的知見としてはそれは正しい。しかし、哲学者としてそのような世界観を信じ込むのは素朴にすぎる。    

  万有引力があるからリンゴが落ちるのではない    

  リンゴが落ちるから万有引力があると想定しているのである。

「力」そのものを見た人間は未だかつていない、ということに気がつかなくてはならない。科学は常に後づけの説明だということを忘れてはならない。科学法則は経験的に予測に有効な方便として位置付けるべき性質のものである。常に反証可能な仮説に過ぎない。 科学は哲学によって根拠づけられるのであって、その哲学を科学によって根拠づけようというのは倒錯した考え方である。

  では、哲学はなにによって根拠づけられるのか?

  その答えは、

   「哲学は何によっても根拠づけられない」 である。

この世のことは突き詰めれば信じるしかない岩盤に行きついてしまう。

哲学においては、選択した前提のもとに論理矛盾をきたさない理論を構築するしかないのである。

結局我々は、この世界を科学であろうがなんであろうが論理によっては根拠づけることはできない、という否定的な結論に到達するのである。

  これが般若心経における「色即是空」という意味である。

しかし、現前するこの世界の根拠を諦観した時に新たな展望が生まれるのである。一旦否定することは否定したが、この世界が現前していることは疑いのないことである。

  その現前しているということが信じるしかないという岩盤である。

「この綺麗な公園や、川や水の流れる音」の実在を根拠づけることはできなくても、あらためてそこに現前していることに気がつく、「実在」の意味を少しずらせば、それがそのままリアルな現実すなわち実在である。その様に認識することが「有るがまま」を認めるということに他ならない。「空即是色」ということである。

西田幾多郎が「善の研究」において、「意識現象だけが唯一の実在である」と述べているのもこの意味である。ここで意識現象というのは「この綺麗な公園や、川や水の流れる音」を指している。「意識現象」と表現しているのは科学的知見を経由しているようで適切な表現とは言えないが、この論文が若書きである為だろう。 一旦否定をくぐりぬけて肯定された世界は、仏教においては一段と有意義な様相を帯びてくる。「柳は緑、花は紅」というが、その当たり前のことが尊い、それが平常底に生きるということである。栂ノ尾高山寺の明恵上人は、ある日野に咲く一輪のすみれを見つけて感動して落涙した、というのはそういうことである。

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