禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

禅的直観と論理世界

2013-12-07 18:33:54 | 哲学

デカルトは「我思うゆえに我あり」と言ったが、日常の言葉では「我」があるのは当たり前とされていたはずである。あえてそのような宣言をしたのは、当たり前だとされていたことが実は当たり前ではないように、デカルトには思えたということがあったからだろう。
とまれ。デカルトはその曖昧な条件の中で、思考の立脚点をあえて日常の言葉である「我あり」として措呈した。
「我思う」から「我あり」は簡単には導出できないということがあって、西欧哲学のなかでもデカルトは様々な批判にさらされてきたのではあるが、デカルトの設定した「主-客」の二項関係というスキームはなかなか突き崩されることはなかったのである。

机の上にリンゴがあるとする。西洋哲学では、実在論であれ観念論であれ、「私がリンゴを認識する。」という構図は変わらない。つまり、「私がリンゴを見ている。」のである。

ところが、いわゆる禅問答においては、「リンゴが私を見ている。」というような表現をすることがある。この言葉を字義どおりに解釈してはならない。「私がリンゴを見る」ように「リンゴが私を見ている」わけでは決してない。

「私がリンゴを見ている」と言えるのならば、「リンゴが私を見ている」とも言い得る、ぐらいに受け取るべきである。

要は、そこに「リンゴがある」という素朴な事実を言い表しているにすぎない。これが西田哲学における純粋経験である。以下の引用は「善の研究」の第一編第一章の冒頭の部分である。

≪ 経験するといふのは事実其儘(そのまま)に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋といふのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫(ごう)も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいふのである。 ≫

実を言うと、禅的観点からすると上の表現は少し不十分である。「経験」というのは経験する主体があってのことだからである。本来なら、「リンゴがある」という素朴な事実を言い表すには「経験」という言葉は相応しくない。現に西田もこれ以降は「純粋経験」という言葉を使わなくなった。
しかし、ここでは西田が言い表そうとした素朴な事実を「純粋経験」と呼ぶことにする。

禅的ものの見方というものを定義するとすれば、「究極の素朴さをもってものを見る」と言えばよいような気がする。見えるものを見えると言い、見えないものを見えないということである。人は時として、見えないものを見えるといったりするものである。

その究極の素朴さでもってものを見ると、「我」に相当するものはどこにも見当たらない。

山を見れば山が見える。木を見れば木が見える。しかし、見ている自分は見えない。飴をなめれば甘い。しかし、甘さを感じる自分は見えない。きんもくせいの花の匂いはかぐわしい。しかし、その匂いをかぐわしいと感じる自分は見えない。

これを読んで、あなたは抗議するかもしれない。
「飴の甘さを感じているのは『自分』ではないのか?」と。

禅者の目で見るとそうではないのである。あくまでそこには「甘さ」があるだけだ。甘さを感じる「自分」というものはどうしても直接見出すことはできないのである。

では、「自分」とか「我」というものはないと言いきってよいのか?

そういう疑問はわき上がって当然である。


 (色)  山を見れば山が見える。しかし、見ている自分は見えない。
 (声)  音楽を聴けば音がある。しかし、音を聴く自分はない。
 (香)  きんもくせいの花の匂いはあるが、その匂いをかぐ自分はない。
 (味)  飴の甘さはあるが、甘さを感じる自分はない。
 (触)  キーボードをたたく感触はあるが、感触を感じる自分はない。
 (法)  我思う時、「思い」はあるが、思う我は無い。

以上のようなことは、内観することになれてない人にはなかなか理解しずらいことだと思う。何について言っているかが分からないと感じるのがふつうである。しかし、心を落ち着けて慎重に反省すると、上述のことが本当であることが必ず分かる。

今回はもう少し、角度を変えて心のありかについて考えてみよう。我々の主体は脳にあって、脳が考えたり感じたりしている、現代人の多くはそういうふうに考えていると思う。しかし、私の思うに、そのことを内在的(直接的)に証明することは決してできない。

例えば、左手で右手の甲をつねってみると、右手の甲に痛さが生じる。決して脳が痛いわけではない。心を落ち着けて観察すれば、「右手の甲の痛み」という純粋経験「だけ」があることに気がつくはずだ。

しかし、貴方はこう言うふうに抗弁するかもしれない。「その痛みについて、目の後ろの部分(脳)で私は考えている。」と。

そうだろうか、私が思うに今この瞬間(あなたは)、おそらくディスプレイ上で考えているのではないかと想像する。私のタイプした文字を見ながら「あなたが」考えているのではなく、実は私(御坊哲)のタイプした文字が考えているように感じてはいないだろうか。ディスプレイ上の文字そのものが語り、文字そのものが考えている、そうではないだろうか? つまり、あなたの思考は目の前のディスプレイ上にある。 ちがいますか?

もうひとつ実験してみよう。

手を伸ばして目の前の虚空をつかんでみよう。そして、できるだけすばやくそして強く、何度も繰り返してみる。この時注意深く観察すると、「掴もうとする意志」は脳にあるのではなく、掴もうとしている手の方にあることが感じられるはずだ。

次に引用するのは、ウィトゲンシュタインの「青色本」(訳 大森荘蔵)の一節である。

≪ こうして、思考を「心の働き」として語るのは誤解を招きやすい。思考は本質的には記号を操作する働きだと言えよう。この働きは、書くことで考えている場合には、手によってなされる。話すことで考えている場合には、口と喉によってなされる。だが、記号や絵を想像することで考えている場合には、考えている主体を与えることができない。その場合には心が考えているのだ、と言われれば、私はただ、君はメタファ(隠喩)を使っている、[君の言い方で]心が主体であるのは、書く場合の主体は手だと言える場合とは違った意味でである、ということに注意を向けてもらうだけだ。 ≫(P.20)

ウィトゲンシュタインは言語の使用法という視点から述べているのだが、この部分は心のありかが直接確認できるものではないという点において、私の言いたいことと符合している。

「脳が考えている」や「私が考えている」という言い方が無意味であるというわけではないが、そのことを直感できるというのは思いこみであると理解していただけただろうか。

重ね重ね強調しておきたいのだが、決して神秘的な事柄について述べているのではない。ごくごく素朴なものの見方ではこうなる、ということをいっているのである。


西田幾多郎の「善の研究」の第2編第2章のタイトルは

  「意識現象が唯一の実在である」

となっている。

意識現象とは仏教で言うところの「色声香味触法」のことである。各々、「眼耳鼻舌身意」の感官によって受け取る感覚である。
つまり、前方にみえる青い山、波の音、潮の香り、ラーメンの味、足に伝わる大地の感触、恋人を好きだと思う気持ち、これら感官に触れるものすべてを指して「意識現象」と呼ぶのである。「経験」と呼んでも良いだろう。

また、仏教では「色声香味触法」の6感覚を総称して広義の「色」と呼ぶ。「色即是空」の「色」である。視覚で他の感覚をも代表させているわけである。西田がここで意識現象と呼ぶのは仏教で言うところの色のことである。

そこで、西田の「意識現象が唯一の実在である」という言葉について考えてみよう。意識現象というとなにか意識の上に映し出されたものというように感じる。仏教においても「色即是空」というように、我々が目にしているものは実体的なものではない、というようなニュアンスがある。西田はそのようなことを承知の上であえて「意識現象が唯一の実在である」と言っているのである。

目の前にリンゴがあるとする。現代人の多くは次のように考えているのではなかろうか。

太陽光線がリンゴ(の実体)で反射して、私の目に入る。目に入った光は網膜で像を結び、視神経を通じて脳に刺激が伝わり、その刺激により目の前に赤いリンゴがあるように、私は感じている。

つまり、目の前にあるリンゴは虚像でありそれは私の脳の中に生じている、となる。実体としてのリンゴは、私たちの認識の及ばないところに「実在」している、ということになる。

実を言うと、このように考えることは、仏教で言う「色即是空」と符合している。仏教においても、リンゴの実体性というものは認めないのである。しかし同時に、仏教では「空即是色」とも言う。実体性がないとは言ってもそれは「現実」であるからである。

禅者は一旦、「色即是空」とこの世界をいわば否定するのであるが、決してそれを儚いものと決め付けてはならない。よく平家物語は仏教的無常観によって描かれていると評されるのだが、私にはどこが仏教的であるのかよく理解できない。

リアリティのない詠嘆調の儚さは決して仏教的ではない。「空」を「むなしい」と読んではならないのである。すべてを空と観じながら、同時にまた、「空即是色」と肯定する観点が無くてはならない。「すべては現実である。」という意味である。仏教的というならば、平家物語よりも明恵上人が一輪のすみれをみて感涙したという話の方がふさわしい。明恵は一見はかない一輪のすみれに強いリアリティを感じたのである。

「目の前にあるリンゴは私の脳の中の像であって、リンゴの実体はその背後に実在する。」という考え方は、科学的推論によって成り立っているということが理解していただけると思う。つまり「実在-刺激-脳」というモデル理論の方こそ「頭の中」で作られた虚像なのである。(もっとも、すべてが「頭の中」ということであれば、この時点でもはや「頭の中」がなにを意味するのかが不明である。)

現実にあるのは「意識現象」だけである。「実在するリンゴの実体」といっても、それこそ論理によってつくりあげた虚像に過ぎない。いつのまにか、その虚像である「実在-刺激-脳」モデルによって目の前の現実を説明する、という逆転が起きている。西田はここで「実在」の意味を読みかえるのである。この目の前の「現実」を「実在」と言うのでなければ「実在」という言葉は無意味になってしまうからである。

禅者はよく「柳は緑花は紅」とも言う。現実はあくまで現実であり、この「当たり前の世界」以外に我々が受け入れるべき世界は無い、ということを言うのである。一度空観を得ると、目の前の光景のリアリティはより強いものとなり、仏教者にとってはそれが妙ともなるのである。

西田はまた、「個人あって経験あるのではなく、経験あって個人あるのである。」とも言う。この経験というのは意識現象のことである。私が経験するのではない、経験の中に私が顕現してくるのである。そんな意味である。

日常の言葉で言う「自己」は経験する主体としての自己である。経験に先立って自己があるとされているが、西田はそうではないという。

現実には経験だけがあるのである。我々が日常的に「自己」と呼んでいるものは、その経験から推論された論理的虚像である。また、仏教ではそれらの経験の在り方そのものを「自己」と呼ぶ。いずれにしても経験に先立つ「自己」というものはありえないということを言っているのである。

(参考 ==> 「公案インデックス」

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