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禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

思いを言葉にする。思いが言葉に引きずられてはならない。

2021-12-09 10:25:57 | 雑感
 先日(12/7)のNHKの「プロフェッショナル/仕事の流儀」という番組を見たら、俳句の夏井いつき先生が次のようなことを仰っていた。

≪ 自分の為に俳句を書くんだから、俳句の為に自分の思いをゆがめるのは違うと思う。頭で空想で作ってると、かっこいい言葉みつけたから、じゃ本当はこっち表現したかったんだけど、でも かっこいい言葉見つかったから、いやいいやそっちでもとかって、最初の思いを捨てて言葉のほうに酔ってしまう。心が無かったら言葉さがしてもしょうがないから‥‥‥ ≫
 
 身につまされる言葉である。このようなことは俳句に限らず、ブログを書く場合にも心掛けておかなければならないことである。私たちは言葉で考えるからである。哲学の場合はなかなか自分の思いにフィットする言葉がなかなか出てこない場合がままある。そんな時、「かっこいい言葉」と言うほどのものではないが、何となくおさまりの良い気の利いた言い回しに逃げたくなる。いったん言葉にするとなんとなく分かったつもりになるが、実は分かっていない、思考が言葉に引きずられているのである。結局、出来上がった文章は初めに思い描いていたものとは着地点が全然違うものになる。
 要するにわかってないのである。虚心坦懐に自分の内面を振り返ってみる必要がある。「心がなかったら言葉さがしてもしょうがない」のである。まずは心を見定めなくてはならないのだろう。
 
今朝(12/9) 午前7時の富士山   昨日の降雪で雪線が大分下に下りてきた。
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天然ワクチン仮説

2021-11-09 10:26:22 | 雑感
 新型コロナの感染者数の激減の原因が分からない。 「人流の減少」「感染対策の徹底」「ワクチンの効果」「天候」 など、いろいろ言われているが、どれも決定的な根拠としては物足りない。なかには、「変異することによって感染力が弱まった。」という説もあるが、これほど大規模な感染を起こしたウィルスでは変異タイプが常に並行的に存在するので、感染力の弱いタイプは単純に淘汰されるだけなので、そういうことは考えにくい。

 パンデミックにおいては、感染力に有意な差があるウィルスが併存した場合、必ず感染力の強い方が弱い方を駆逐することになる。例えば、従来のウィルスの2倍の感染力を持つ変異ウィルスが出現したと想定してみよう。2倍の感染力が2倍の実行再生産数を意味するとしたら、感染力の強い方はネズミ算式に従来型を凌駕していくことは理解できると思う。それでも、感染者数が少ないうちは、従来型も着実に感染者を増やして行くはずである。しかし、感染が広がると同時に抗体を持つ人の比率が増えてくる。そうなると、どのウィルスの実効再生産数も低下する。例えば、抗体を持つ人の比率が50%だったとすると、定員千人の劇場が満員だったとしても、感染の可能性という観点から見れば、500人しか入っていないのと同じである。密に見えても実はさほど密ではないのである。抗体を持つ人の率が増えれば増える程、どのタイプのウィルスについてもその実効再生産数は低下する。そうすれば、まず感染力の比較的弱いタイプが実効再生産数は1を下回ることになり淘汰される。つまり、最終的に残るのは常により感染力の強いウィルスなのである。

 日本人は欧米人のように握手やハグをしないしキスもしない、トイレへ行けば手を洗うし、マスクもきちんとつける。もしかしたら、体質的にコロナに対する抵抗力があるのかも知れない、ということで、第一波から第四波までは、欧米に比べると極めて小さな感染状況であった。ところが、第五波は今までとは全然様相が違った。東京の新規感染者数は連日五千人を上回り、しかも陽性率が30%を超えるという事態にまでなった。そこで考えられるのは、第5波のウィルスは今までのものに比べて、感染力が極めて強いということである。しかも、感染者数に比して重症者の比率が比較的少ない。感染力は強いが、毒性の弱いタイプのウィルスだと考えられる。

 それにしても陽性率が30%を超えているというのはあまりにも高すぎる。感染経路を全然追い切れていないということである。もともと日本は検査件数が少なすぎる。当初は「発熱後4日間は様子を見る」というような馬鹿げたお達しがあったせいで、無症状の人はもちろんのこと、軽症状の人も検査する人の割合が少なかったのではなかろうかと考えられる。第5波のウィルスが毒性の弱いものであれば、感染しても無症状の人の率が高いし、軽症の人もPCT検査をしないで済ませた人も多いのではないだろうか。その上での陽性率30%である。この数字はあまりにも高すぎる、感染経路のトレースを途中であきらめているということなのだろう。東京都の一日の新規感染者が5千人を超えたと報告された頃、新規感染者の実数は10万人以上に達していたのではないだろうか。

 以上のように考えるとつじつまが合うのである。もし私の想像が当たっていれば、7月から8月にかけて、東京都における新規感染者数の累積は300万人程度に達していたのではなかろうか? もしそうだとすれば、その間のワクチン接種状況の進捗具合からして、9月中には東京都の成人の90%以上の人が抗体を持っていたという想定が成り立つ。90%の集団免疫が出来れば、さすがに感染力が強いウィルスも実行生産数が1を下回って勢力が衰えてくるはずである。つまり、第5波のウィルスは感染力は強いが毒性は弱い、毒性が弱くても感染すれば抗体は出来るので、いわば天然のワクチンのような働きをしたとも考えられる。

 私は感染症の専門家でも何でもないので、以上のことは素人の思い付きである。しかし、理論的には全くありえないことではない。ワクチン非接種者の抗体検査をすればすぐ検証できることである。一刻も早く真の原因を追究するために、あらゆる可能性を想定して、考えうる限りの検査を実施すべきだと思う。もし、私の想定が当たっていれば、第6波は来ないという可能性もあり得る。楽観は禁物だが、そうであることを切に願っている。

※ 専門家でもないのに思い込みで「 第6波は来ないという可能性もあり得る。」などと言ってしまい、見事外してしまいました。ウィルスの変異を甘く見ていました。これからは少し慎みたいと思います。

 
横浜エアーキャビン 一日も早く日常を取り戻したい。 
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日本の人々は、いつもお互いのことを気にしている

2021-10-26 06:13:16 | 雑感
 本日のタイトルは、今年度のノーベル物理学賞を受賞した真鍋叔郎博士の言葉から引用した。受賞に際して、「なぜ日本国籍を捨ててアメリカ国籍を選んだのか?」という質問に答えて、博士は次のように答えた。

「日本の人々は、非常に調和を重んじる関係性を築きます。お互いが良い関係を維持するためにこれが重要です。他人を気にして、他人を邪魔するようなことは一切やりません。‥‥‥ アメリカでは、他人の気持ちを気にする必要がありません。私も他人の気持ちを傷つけたくはありませんが、私は他の人のことを気にすることが得意ではない。‥‥‥ 私はまわりと協調して生きることができない。それが日本に帰りたくない理由の一つです」 

 調和を重んじるのは日本の美風かも知れないが、博士にとってはそれが息苦しかったのだろう。それと、博士は「他人を気にして、他人を邪魔するようなことは一切やりません。」と述べているが、この言い方は正確ではない。単に他人のことを思いやるだけなら、日本は世界一素晴らしい国である。一方的に他人のことを気にかけるだけなら何も問題は無いだろうが、相手にもそれを要求する。いわゆる暗黙の同調圧力、それが息苦しさの原因である。
 博士のノーベル賞受賞を日本人の26人目として我々は喜んでいるが、すでに彼はアメリカ人であることについても、我々は考えるべきだと思う。アメリカに研究拠点を持つ彼にとって、アメリカ国籍を持っ方が便利に決まっている。問題は日本の法律が二重国籍を認めていないことである。日本人が他国籍を取得した場合は日本国籍を捨てねばならない。アメリカ側から見れば二重国籍は法律的にも全く問題がないのに、日本だけがそれを問題視するのである。日本は二重国籍者をコウモリ的な存在と見ているのだろう。そこには日本人特有のある種の嫉妬の感情があるような気がする。

 わが国には「在日特権を許さない市民の会」というものがあることを故存じだろうか?いわゆる在日韓国・朝鮮人の方々の日本在留に関する権利を「特権」と見なし、それを無くそうとする人々の集まりである。いわゆる在日の方々はかつてすべて日本国民だったのである。それが第二次世界大戦が終わると同時に、日本人ではないということになった。そういう歴史的経緯を踏まえれば「在日特権」などという言い方はおかしいのである。むしろ、二重国籍を正式に許容した方がすっきりするだろう。考えてみて欲しい、柳美里さんや伊集院静さんは日本文学の大きな担い手である。流行歌手にも在日の人が多いことは知られている。日本文化というものは既に多様な人々によって構成されているのである。日本人が「他人のことを気にする」のであれば、それらの人々が気持ちよく日本で暮らせるよう「気にかける」べきだと私は思う。
 
 今度の選挙では「選択的夫婦別姓制度」も争点の一つとなっている。 既に若い人を中心に日本人の多くがこの制度を受け入れてもよいと考えているが、頑強に夫婦同姓にこだわる人がまだかなりいる。その人々が夫婦同姓にこだわるのは自由だが、やっかいなのは、自分達だけではなく他人も夫婦同姓でなくてはならないと強硬に主張することだ。なぜ? そんなに他人のことを気にする? 自分達だけではなく、他人も一緒にこの日本伝統の美風に同調して欲しい、という願望はちょっと厚かましすぎるというか、とても押しつけがましくて暴力的である。夫婦同姓が日本の伝統などというのは勘違いだし、本当の意味で「他人のことを気にする」のであれば、夫婦別姓を選択したい人々の事情をくみ取ってあげるべきである。
 
 真子内親王の結婚問題についても同様である。彼女の人生になんの責任も持ってない人がとやかく言うべき問題ではない。誰かが言ったように、彼女にも失敗する権利はあるはず。「他人のことを気にする」のは良いとしても、決して他人の人生に介入するべきではない。どうしても彼女の事が気になる人は、心配だけしていれば良いのである。
 
 
横浜市磯子区 「浜マーケット」 (記事記事本文とは関係ありません。)
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ウィルスは弱毒化する?

2021-09-29 05:28:49 | 雑感
 「長期的にはウィルスは弱毒化する。」と言われているが、この「長期的」がどの程度のものかが問題である。「感染者が皆死んでしまえばウィルス自体も生き残れない」というような、進化論的な話であるならば、人間の何世代にもわたる超長期であると考えた方が良い。つまり、「長期的にウィルスは弱毒化する」のは、私もあなたも死んだ後の話である。

 現実的には、ウィルスは弱毒化する可能性も強毒化する可能性もある。遺伝子の変異は無作為だからである。一般的に言って、現在生きている生物(ここではウィルスも生物とする)の遺伝子は「生存している」という意味で相当洗練されていると見るべきである。今「生きている」ということは、既に淘汰のフィルターを通り抜けてきたということだからである。

 だから一般に、変異すなわち遺伝子のコピーミスのほとんどは生存に有利には働かない。人間ならばたいていそれは「遺伝子異常」と言われる事態となる。ウィルスについても同様で、生存にかかわる遺伝子の変異であれば、そのウィルスはたいてい生き残れないのである。ただ、ウィルスは個体数が桁違いに多い。だから遺伝子の変異自体がまれなことだとしても、それは巨大な数となる。変異自体は無作為でそれが強毒化するものもあれば弱毒化するものもあり、感染力が強いものも弱い者もある。ただ、感染力の弱い者は生き残れないのだから、結局感染力の強いウィルスだけが生き残る。それを人間の側から見れば、ウィルスがどんどん感染力が強くなってくるように見えるわけである。このように個体数が膨大であるウィルスは容易かつ極めて短期間に「進化」を遂げるのである。

 結果的には、人間の免疫力をくぐり抜けるようなウィルスであれば、強毒だろうが弱毒だろうが生き残るのである。したり顔で、ウィルスは生き残るために弱毒化する。」などというべきではない。個々のウィルスは生き残ろうと考えているわけではない。「進化」は結果として起こるものであって、決して目的論的に考えるべきではない。

 「キリンの長い首は高い木の葉っぱを食べることが出来るように進化した。」というのは間違いで、「長い首のキリンは高い木の葉っぱを食べることが出来るので生き残った。」というべきである。科学教育という観点から見て、進化論に対する態度というものは極めて重要なことだと思う。その辺のことが学校ではきっちり教えられていないような気がする。最近テレビで、コメンテイターが専門家に対して「長期的にはウィルスは弱毒化すると言われていますが、最近そのような傾向が出てきているような気がしますが、どうでしょう?」と訊ねているのを聞いて、ちょっと驚いたのである。

 とにかくウィルスは感染力さえ強ければ感染する。今生きている自分自身の問題としてとらえるならば、それが弱毒であることもあれば強毒であることもある、と考えるべきである。

横浜 象の鼻パーク (本文とは関係ありません。)
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歌うヴァイオリン

2021-09-13 09:45:16 | 雑感
 毎週土曜日の朝8時から、BSテレビ東京で「音楽交差点」という番組が放送されています。進行役の春風亭小朝さんとヴァイオリニストの大谷康子さんが、毎回いろんなジャンルの演奏家を招いて大谷さんとコラボレートする、そういう番組です。大谷さんは本来クラシックの演奏家ですが、ジャズやカントリーだけでなく、世界中のどんなジャンルの音楽でも相手に合わせてヴァイオリンを演奏します。  
 毎回、小朝さんが軽妙な会話を引き出して、和やかな雰囲気の中で楽しい演奏が繰り広げられます。そして、大谷さんはさりげなく超絶技巧を織り交ぜながら、本当に楽しそうに演奏するのです。一度見れば、なぜ彼女が「歌うヴァイオリン」と呼ばれているかが分かります。「弾いて」いるのではなく「歌って」いるのです。まるでヴァイオリンが肉体の一部であるかのように自在に歌っている実に楽しそうに、そんな感じです。

 あなたが音楽好きの人なら、視聴することをお勧めします。きっと気に入る番組だと思います。
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