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禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

人は老いると小さくなる?

2022-09-07 05:44:05 | 雑感
 就学や就職で一旦故郷を離れた後に久し振りに帰省すると生まれ育った町が小さくなったと感じる、それはほとんど誰もが経験することらしい。道幅は狭く、通い慣れた学校は「もう少し遠くにあると思っていたが、案外近かったんだな。」という感慨を抱く。ところが今回久々に信州を訪れて、私はこれとは全く逆の経験をしたのである。 私は学生時代の五年間(1年落第)を松本で過ごした。その内の大部分を思誠寮というところで暮らしたのだが、そこは現在は「あがたの森公園」の一部となっている。あがたの森は松本駅から一直線の目抜き通りの終点にあり、駅を出ると正面に見えるヒマラヤスギの森がそれである。
 駅近くのホテルに荷物を置いて、早速私はあがたの森を目指したて歩き出した。「松本の街も昔に比べて随分小ぎれいになったなぁ」などという感慨に浸りながら歩いていたのであるが、その内奇妙な感覚に襲われたのである。なかなか着かないのである。あがたの森は見えているのに、歩いても歩いても近づいてこない。「こんなに遠かったのだろうか?」 学生の頃は軽く散歩感覚で歩いていた距離である。
 これはやはり自分が老いたということなのだろうという結論に落ち着いた。老いれば体力も知力も低下する、行動範囲も思考範囲も狭くなる、つまり人は老いると小さくなるのだろう。さびしいことだが受け入れるしかないことである。   
  
(松本駅からあがたの森を見る)
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最後の手段

2022-03-11 10:54:17 | 雑感
 ロシア軍によるキエフ総攻撃は時間の問題であると言われている。このままウクライナ側が徹底抗戦を続ければ、280万都市が焼け野原になってしまう。今までとは別次元の悲惨な状況に陥ることは疑う余地がない。ロシアに対していくら経済制裁を加えてもプーチンにおもいとどまらせることはできない。かといって、第3次世界大戦を避けるには欧米も直接戦争への介入はできない。となればどうすれば良いのだろうか?

 素人考えと言われるかもしれないが、白旗を揚げるべきではないのかと思う。一度は自由な空気を吸ったウクライナ国民にとって、ロシアの傀儡政権の支配下で暮らすのは苦痛以外のなにものでもないと思うが、このまま抵抗を続ければ何十万どころか何百万の人命が失われかねない。祖国の栄光の為に最後まで戦っても、死んだら元も子もない、死んだらその人にとってなにもかも一貫の終わりである。この世はもともと不条理なものと見定めなければならない、というのが仏教の教えである。と言っても悲観主義のすすめではない。不条理の中にも最善の選択を模索しなければならない。決して思うようにならないからと言ってやけくそになってはいけないということである。玉砕はしてはならないということなのだ。禅では「大死一番」とか「死んで生きよ」とか言われるが、あくまでそれは日本の武家文化の中で生まれた「生きることに執着するな」という解釈であって、私はそれは仏教の解釈としては間違っていると思う。仏教の趣旨としては「何事につけても固定観念に執着してはいけない」ということに尽きる。この場合、祖国の栄光とか名誉という言葉に執着してあたら多くの人命を失ってはならないということである。

 いかにプーチンが情報を統制したとしても、いずれかの日に彼が行ったことの真実がロシア国民にも知れ渡る時が来るはずである。もしかしたら彼の生きているうちにその日はやって来ないかもしれない。スターリンのように‥‥‥。だが、この情報化時代においては誰も歴史の審判を逃れることは出来ない。ロシア国民がロシア軍のウクライナで行ったことの意味を知る時が必ずやってくるはずである。ウクライナの子供達にはその日まで生き残っていて欲しい、と私は切に願うのである。
 
 このようなことをいうことは、必死に戦っているウクライナの人々にすれば侮辱以外のなにものでもないかもしれないが、一人でも多くの人々に生き残って欲しいと思うゆえである。


あがたの森 (長野県松本市)
コメント (2)
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自分を超えることは出来ない

2022-02-21 07:06:08 | 雑感
 自分が馬鹿か利巧かと自問すれば、大抵の人はどちらかと言えば利巧であると思っているのではないだろうか。それは至極当然と言えば当然のことである。人は自分が分かることは分かる。逆に言えば自分が分からないことは分からない。実に当たり前のトートロジーであるが、このことをわきまえておくことはとても重要である。分からないことが視野の外ならば、分かることばかりなので万能感が生まれやすい。 自分の思考力を客観的に把握するためには、自分の分かることだけではなく分からないことも分からなければならない。分かることと分からないことの両方が分からなければ、本当の意味で自分の限界を知ったことにはならないのである。
 
 「分からないことを分かる」というのは矛盾したもの言いである。「それまで分からなかったことが分かるようになる」ということはあり得るが、それは単に「分かる」領域が広がっただけであり、あえて言うなら「分かり得ることが分かった」に過ぎない。その外には依然として分からない領域があるという構図自体に変化はない。哲学者のようにいつもものを考えている人は、自分の考える限りのことを考えているので、「俺はこんなことまで考えている」(=「俺は賢い」)と考えてしまう罠に陥りやすい。
 
 最近は高齢者の交通事故が問題になっている。もう車の運転はやめて欲しいと子や孫が頼んでも、「俺は絶対大丈夫」と言い張る年寄りが多い。手も足も自分の思い通りに動かせるから全然OKというわけだが、その「思い通り」そのものがスローモーションになっていることにはなかなか気づけない。

 人間は自分のことを自分の内側から見ることは出来ないのである。かといって、自分を外側から直接見ることもできない。自分を知るには、自分そのものではなく自分の行状の結果を見て判断するしかないのである。いわゆるテストというのはその目安にはなる。高齢だが運転免許を手放したくないという人は、反射神経や判断力のテストを受けてみると良いだろう。毎日日記を付けている人なら昔の日記を読み返して、昔はこんなに好奇心が旺盛だったのかとか、記事内容がだんだん淡白になっていことに気づいたりする。私は仲間由紀恵さんという俳優が好きで彼女の出る番組をよく見るが、度々彼女の名前を失念する。それも二度や三度ではなく、何年間にも渡って一人の俳優さんの名前の憶えたり忘れたりを繰り返している。こうなってくると、自分の知的能力の衰えを疑わない訳にはいかないのである。

 これを読んでいるあなたは、以上のようなことを述べている私について、冷静に自分を見つめることができる殊勝な人間であるというような印象を持ったかもしれない。しかし、実はそうではなくて、客観的にはダメ要素ばかりの私でもなかなか内側から湧き上がる傲慢さを抑えるできない、むしろそんな人間である。だから、周りからいくら諫められても車の運転を止めることができない頑固老人の気持ちがよく分かる。いつの日か、周りに迷惑をまき散らしながらそれを自覚することができないぼけ老人になってしまうのではないか、目下の所それが私の一番の心配事である。

小田原市 上府中公園
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中庸ということの大切さ

2022-02-11 15:25:50 | 雑感
 私は1960年代の終わりから70年代の前半にかけて学生時代を過ごしている。いわゆる学生運動が盛んな時代でもあった。私自身は典型的なノンポリ学生であったが、おそらくそれは私が怠惰な人間であったからだと思う。学生でありながら勉強は全然せず、かといってアルバイトに打ち込むというほどのことはしない。日がな一日部屋でごろごろと転がって日向ぼっこをしているような毎日であった。 私はその頃学生寮に住んでいたが、寮にはいろんな人が住んでいた。思想的にはいわゆる左がかった人も多く、日共系、反日共系のどちら側の学生も住んでいた。そして、活動らしいことはしていなくとも、いわゆるシンパ系の学生は相当いたはずである。何気ない雑談中に思想的な話題になると、普段は温厚で気弱そうな人の口調が急に変わって過激なことを口走りだす。そんな経験があって、私はイデオロギーというものの人を駆り立てる力というものを感じた。

 私は信州松本の大学に在籍していたが、時々都会の空気を吸うために東京に行くことがあった。中学時代からの友人のいる東京水産大学(現在の東京海洋大学)の学生寮に投宿するのが常であった。寮の掲示板には常時アルバイトの募集があったので交通費と食事代は稼げるし、飽きるまで滞在できるのである。そのようにして私は何食わぬ顔して水大生然として振舞い、顔見知りになった連中の部屋へも自由に出入りしていた。そんな調子で、その日も私は寮のある一室でマージャンを打っていた。お互い相手がどういう氏素性のものかは分からないが、そこは学生同士の気楽さで和気あいあいと談笑しながらマージャンを楽しんでいた。しかし、私はそこで地雷を踏んでしまった。少し以前に日本赤軍が世間を騒がした頃であった。私はそのことについて、「なんであんなあほなことやるんやろなぁ」と軽口をたたいてしまったのである。対面の男が身を乗り出してきて、いきなり私の胸倉を思い切り掴んだのである。部屋の雰囲気が仲良しムードから一挙に険悪ムードになってしまった。私は思い切り力を入れて相手の手を振り払うと、相手の男は「でていけっ!」と怒鳴った。私はとても気まずい思いをしながらすごすごとその部屋を引き払った。あとで友人にそのことを話すと、「お前、よう無事に帰って来られたなぁ。あの部屋は京浜安保共闘のアジトやでえ。」と言われた。団塊の世代以降の人はあまりご存じないだろうが、京浜安保共闘というのは日本赤軍の母体の一つとなった過激派組織である。

 しかし、私は今思うのである。彼らと私は友達になれたはずなのだと。過激派と言ってもやくざではない。人情も誠実さも持ち合わせていた人たちである。ある意味誠実すぎるとさえ言える。私と彼らを分断したのはイデオロギーだった。イデオロギーは言葉である。言葉が私達を分断するのである。

 さて、ここからが本題である。大乗仏教の創始者である龍樹によれば、言葉に依って真実を表すことは出来ないのである。私は今年の一月後半に概念(≒言葉)についての記事をいくつか書いたが、概念は必ず抽象化されているゆえに言葉が現前するものに的中することはありえない、そこにロゴス中心主義の危うさがあるという趣旨のことを述べた。イデオロギーは革命を正しいものと位置付けるが、「革命」という言葉には実は権力の交替という意味しかないのである。あまりにも矛盾した社会を変革するためには革命が必要であると思う。革命を起こすにはイデオロギーの力が必須となる。しかし、イデオロギーは人々の暮らしの中の多くの細々したことがらを捨象するのである。ロシアや中国や北朝鮮で成し遂げられた革命を振り返ってみれば、その事は歴然としている。

 学園紛争盛んなりし頃、「とめてくれるなおっかさん 背中(せな)のいちょうが泣いている男東大どこへ行く」という文句が流行ったことがある。背中のいちょうはやくざの代紋、代紋がやくざのイデオロギーである。代紋を背負っているかぎり、育ててくれた母親の情も振り切って男の道を進まなければならないのが任侠道である。革命という正義のためにすべてをなげうって進まなくてはならない活動家にとって、やくざにシンパシーを感じるのは自然なことなのだろう。学園紛争盛んな時期の東大駒場際にこのキャッチコピーが生まれたのも必然だったかもしれない。

 任侠道もそうだが、革命を目指すイデオロギーにも日常性というものがすっぽり抜け落ちている。産まれてからこのかた母親は自分のおむつを何回かえてくれたか、乳を何回飲ませてくれたか、むずがる自分を何回あやしてくれたか、人間の生活誌にはそのような無数のことどもが刻み込まれているのであるはずなのである。そのような日常性そのものが本来の人生ではなかったか。それらをすべてなげうって、母親の涙をふりきってまで、革命という建前に殉ずるというのはやはり間違っている。まさにやくざと同じ生き方である。純粋な生き方をすればそれでよいというものではない。日本赤軍のやったことが何をもたらしたか、その結果を見てみれば彼らの主張に理が無かったことは明らかである。彼らの一人一人を見ればまじめな人がほとんどであった。生まれてくる時代が少しずれていたならば、社会にとっても有用で幸せな人生を送ったのではなかろうかと思わせるような人が多い。

 時には革命を目指さなければならないという事情がある場合もあるだろう。しかし、絶対の正義というものはないということも肝に銘じておかなければならないと思う。そこで仏教では中庸とか中道というのである。それは右と左の真ん中ということではない。単純な言葉で割り切らないということである。決定的な間違いを起こさないように、反照的均衡を保ち続けるということに他ならない。私たちはイデオロギーに安住することは出来ないのである。

ホー・レインフォレスト (アメリカ ワシントン州)
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何を信じるかそれが問題だ

2022-01-14 11:45:51 | 雑感
 私たちは何かを信じて生きている。それは間違いのないことである。デカルトは「少しでも疑いうるものはすべて偽りとみなしたうえで,まったく疑いえない絶対に確実なものが残らないかどうかを探るべき」と言ったそうだが、そんなことは不可能だと思う。デカルトは「私が今夢を見ている可能性を否定することは出来ない。」と言うが、何もかも疑うなら、夢だとか現実だとかいう枠組みさえも無くなりカオスになってしまう。なにかを信じていなければ疑うことさえできないのである。なにかを信じているという土台があってこそ疑うこともできるのである。
 
 もしかしたら、「私は根拠のないものは信じない。だから科学的なもの以外は信じない。」と言う人もいるかもしれない。しかし哲学的視点から見れば、科学でさえ一種の信仰に過ぎないのである。「宇宙に斉一な秩序が存在する」ということを信じて初めて科学は成立するが、宇宙斉一説の論理的根拠というものは存在しない。今日まで万有引力の法則が有効であったが、明日からもそうであるという必然的な論理的根拠、保証は実はどこにもないのである。だから科学を信じるなという話をしているのではない。逆である。私たちは所詮絶対的な根拠というものを得ることが出来ないという話をしているのである。だから最後の最後、究極の所はなにかを信じるしかないと言いたいのである。おそらく、科学は私たちが最も信じるべきものである。少なくとも万有引力の法則は今まで私達を裏切ったことはない。とにかく私たちは宇宙の斉一な秩序を信じて生きていくしかないのである。

 どんな思想も最終的な根拠というものが「信じる」ということに支えられているということは憶えておかなくてはならない。現実の社会ではそのためにいろんな齟齬が生じてくるのである。ちょうど一年前にアメリカのキャピトル・ヒル(国会議事堂)に暴徒が乱入する騒ぎになった。民主主義のチャンピオンを自認していたアメリカでこのような事件が起こること自体がちょっと信じがたい話だが、昨年10月にキニピアック大が行った世論調査では、民主党支持層の93%が「事件は政府に対する攻撃だ」と答えたが、共和党支持層では29%にとどまったという。共和党支持者の間ではこの事件を民主主義に対する挑戦であるとは見ずに、「民主党や大手メディアが事件を政治利用している」という不満が渦巻いているらしいのだ。

  一昨年の米大統領選挙では、トランプ側が選挙に不正があったとして訴訟を乱発した。そのほとんどが根拠のないものでことごとく却下されたが、トランプ支持者にとってはおびただしい訴訟があったこと自体が不正の根拠になるらしい。モンマス大の11月の世論調査では、共和党支持層の73%の人が「バイデン氏の勝利は不正によるものだ」と信じているという。何十件もの訴訟がことごとく門前払いを食わされていれば、普通は訴訟する側の姿勢が疑われてしかるべきだと思うが、人は信じたいものを信じるということなのだろう。インターネットが拡張された世の中になってこのような傾向はますます顕著になってきている。ネットの中には信じたい情報があふれているからだ。そのほとんどがゴミみたいな情報であったとしても、信じたい人間にとってはそんなことはなぜか問題にならない。

 最近、武蔵野市議会において外国籍の人の住民投票への参加が話題となった。住民投票というのは、あくまで行政側が住民の意見を問うもので法的拘束力はない。よりよい街をつくるためには一人一人の住民の協力が必要なのであるから、外国籍であろうと何であろうとその土地の住民であれば、その意見を聞くというのは当たり前のことではないかと思う。なのに、インターネット上では、外国人による日本乗っ取りの道を開く式のコメントが横行する。いわゆるネット右翼が見当はずれの意見をコピペして拡散するのである。周りの雰囲気に流されるというのが良くない日本人の傾向である。表向きには社会の多様性や寛容性が大事であるとかよく言う、しかし現実的には狭量で排他的な意見に引きずられやすい。「外国人に日本が乗っ取られる」などというありもしない幻想をやすやすと受け入れてしまうのである。

 どのような信念を受け入れるべきかということを簡単に言うことは出来ないが、それに基づいて行動する以上必ず責任がつきまとうことを忘れてはならない。自分なりの正当性の基準について熟慮する必要がある。

横浜 たそがれ時の中華街
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