神様がいないということはこの世界を差配している者がいないということである。この世界には目的も意味もないということである。唯一の秩序は物理法則だけであり、ものごとはそれに従って流動しているだけに過ぎない。その背景には何らの意図の如きものもなくすべては無目的的であり偶然的である。 神のいる世界では、人間も犬も猫も神が設計しつくりあげたものであり、それなりの完成形であると考えられる。しかし、無常の世界ではあらゆるものが絶えず流動変化している。どの瞬間をとっても完全に同一というものは存在しないのである。だから無常の世界では個物と言っても、単によく似たパターンを一定の時間の間維持しているだけという程度のものものでしかない。
神様を前提としない仏教では無常ということがその根本となっている。仏教の中心思想である「空(くう)」というのも無常ということから必然的に導き出されるのである。万物が流動し続けている無常の中では固定的なものは何一つない。あらゆるものが変化の途中である。つまり無常の世界では「完成品」と言えるものは何もない、何か意味ありげなものに見えたとしてもそれは偶然かつ過渡的なものでしかない。神のいる世界では、人間は神の意志によって製作されたものであり、それなりの意義を伴った目的物であり完成品だと考えられる。しかし無常の世界では、その「人間」という概念そのものが否定されてしまうのである。「人間」だけではない、「犬」や「猫」、「山」といった概念もまた同様である。
ここで述べていることはなかなか受け入れ難いことだと思う。しかし、仏教の空というのはそういうことなのであり、このことはソシュール以後の言語学の主張することと一致するということも事実でなのである。例えば「人間」という言葉は「人間と人間以外を区別するだけであり、厳密な意味を含んでいるわけではない。」というのは現代言語学においてはほぼ常識となっている。通常は、どの人を見ても一人一人姿形が違うのにそれが人間と分かるのはそれぞれの人が人間としての本質(イデア)を備えているからだと考えられている。常識的にはそれは正しいと言っても良いと思う。しかし、その「本質」を厳密に規定するのは不可能であり、どうしても恣意的にならざるを得ないのである。「人間」という概念についてもう少し厳密に考えてみましょう。
最初の人類は、約700万年前から600万年前にアフリカに現れたとされています。最初から地球上に人間はいなかった、ということはいつかの時点に「最初の」人間が出現したはずです。ということは、最初の人間は人間以外の親から生まれたということになります。もし人間の本質またはイデアというようなものが本当にあるなら、最初の人間と(人間ではない)その親のあいだに客観的な境界が存在する筈です。実際にはそんな境界などあり得ないということがご理解いただけるでしょうか。人間と人間以外の境界は恣意的であらざるを得ない、このことは人間という言葉だけではなくあらゆるものについて言えます。
ここで述べていることはあくまで「厳密なことを言えば」という但し書き付きであります。「一切皆空」というのはあらゆる概念や言葉を否定するという意味ですが、究極的な事を言えばその通りなのです。決して概念や言葉がいけないと言っているわけではありません、その限界をわきまえておかねばならないということなのです。日常生活においては言語を信頼しなければ八百屋さんへ行ってキャベツ一つ買うことさえできません。日常生活ではキャベツの厳密な本質を問題にする必要も無い、八百屋ならぬ果物屋でキャベツが売られていても一向に差し支えありません。では、仏教における「一切皆空」というのは一体何を問題にしているのでしょうか? 次回記事ではそのことについて論じてみたいと思います。
