クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

第十二回箕輪城まつり H-26-10-26

2014-10-27 13:56:52 | 伝説・史跡探訪
昨年に引き続いて箕輪城まつりの見物。今年で第十二回、何時も天候には恵まれなかったのに
今日のような好天に当たるとは珍しい。
城址と箕郷支所の中間に適当な駐車場所があるので今年も利用させてもらう。支所に近づくと
既に28団体350名とされる出場者の皆さんが整列しようとしている。

出陣式は箕郷町弓道愛好会による「和弓礼射」。古来からの礼法をきちんと守る演技は
昔の事を忘れがちな風潮の中、新鮮に見える。



箕輪和弓1


箕輪3和弓2


集まっている出場者たちもシーンとして見守り、的中には盛大な拍手。尤もお祭り用だから
普通の弓道場より距離は短く的も大きい感じだか一向に気にならない。



再び、式場に向かうと箕輪城の姫役たちに囲まれた長身の男性、福田達夫衆院議員さんが
去年に続いてのゲスト参加で冒頭挨拶。だが、福田さんは群馬四区、この箕郷は小渕さんの群馬五区。
流石に去年まで主賓だった小渕さんは今は無理。因みに群馬五区は有権者数は314千人で
全五区中の三番目だが地域は広大。(旧渋川市、子持村、小野上村、伊香保町)富岡市・安中市
(旧群馬町・箕郷町・榛名町・倉渕村) 吉岡町・榛東村・ 甘楽町・下仁田町・南牧村
東吾妻町・草津町・高山村・嬬恋村・中之条町・長野原町。



箕郷支所長さんり挨拶、この方も新顔?



周りで子供忍者が元気一杯、後半の模擬合戦で大暴れして大人を手古摺らせる。



模擬大砲で礼砲一発、余りの轟音にカメラを持つ手が思わず揺れる。

箕輪1礼砲


寄居鉢形城三つ鱗隊による火縄銃演技。

箕輪5 火縄銃実演


大将格の一発を最後に出陣式は終了して武者行列が約3K離れた城址に向かって出発。



寄居・鉢形城とは相互に友情ゲスト出演をしているとか。彼らと箕輪城との関係は
北条勢がこの箕輪城主だった期間があるから。蛇足ながらざっとおさらいすると

1566年(永禄9年)武田軍は箕輪城への総攻撃を仕掛け、頼みの上杉謙信の援軍を待たずして
9月下旬には遂に落城し業盛は自刃して果てる。以後、箕輪城は武田氏の上野経営の拠点と
位置づけられ、甘利昌忠、真田幸隆・浅利信種・内藤昌豊・内藤昌月が城代。
1582年(天正10年)2月、天目山の戦いで武田氏は滅亡したが、この機に乗じ北条氏政の
弟・氏邦が侵攻。しかし、同年、氏邦は織田信長の家臣・滝川一益により追われるが
同年の6月、信長が本能寺の変で倒れると、北条氏直・氏邦の大軍が上野国に侵攻、
神流川の戦いで一益を破り、氏邦が再度箕輪城に入城し1590年の小田原城陥落まで
8年間の城主だった。井伊直政が徳川家臣として入ったのはこの後。


先頭は例によって山伏姿の「箕郷町御嶽教講者」の面々。午後の鎮魂祭では主役になる。
それに続いて各隊が最初の休憩地の箕郷小へ出発。





















箕輪4行進 1


各隊は沿道の観客向けに色々なサービスをしながら進行。
「えすびっく青鬼隊」の模擬鉄砲



群馬甲冑愛好会の抜刀勝どき。







この若者たちは模擬合戦で抜群の身体能力と格闘技によって観客を魅了する面々。
真ん中の人が「上泉秀綱」役で大奮闘する。



休憩所で甲冑愛好会の会長を務める加藤季彦さんとマネージャーさんに再会。



給水休憩が終わって再び行進を再開、城址登り口の大手門に相当する「虎韜口」に到着
して再び集結のため休憩。



今年から城址への幅広の道が作られたが、途中にスズメバチが出ているとのことで
残念ながら使用禁止。



今までのこの登山路を三の丸目指して登ることになった。



対面の丘の上で出発の合図をする大砲隊が法螺貝を吹き鳴らしつつ準備中。



この大砲隊はこの後の模擬合戦で活躍するが、この人が製造した小板橋稲年さん。



やがて号砲が鳴り



先頭の山伏たちが一斉に法螺貝を吹き鳴らす。



この道は普通の登山道風で甲冑姿のまま登るのは大変だろうが続々と。















本丸跡では既にアトラクションが進んでおり大勢の観客が楽しんでいる。

箕輪7 アトラクション


武者行列が昼食・休憩している間、演舞・新陰流兵法演武・獅子舞奉納・上泉顕彰会演武
鉢形城 森重流火縄銃演武が続く。
お昼を過ぎると「御前曲輪」でディレクターさんの指導で合戦の練習。





休憩中の甲冑愛好会の面々の写真撮影。今の時期は毎週のように何処かのイベント出演中。



















13時半近くになって漸く開会式で長々とした挨拶と延々と続く来賓紹介。
やっと終わってこの箕輪城にかかわった諸武将への鎮魂の神事。



長野業盛による長野勢が揃ったという「着到状」を読み上げ。



そこに伝令が走りこんで武田勢が現れたと伝える。



大将の長野業政が全軍に檄を飛ばし武将たちが勝鬨を上げて応えて模擬合戦が始まる。
今年の業政役は何時もの大殿ではなく何と高崎市長の富岡さんで皆さん大分、親近感を
持った様なので大成功だろう。それにしても長時間の鎧姿はご苦労様でした。



実は今年のパンフレットは去年と大きく違っている。もともと史実ではないとの
触れ込みでの模擬合戦なのだが、第一に合戦の名が付いて「板鼻の戦い」と。
歴史上、板鼻の戦いと特定されるものはない。信玄は1557年の瓶尻合戦以来、
落城の1566年まで9回も上州に侵攻しておりその進路は板鼻・若田原がルートだったので
板鼻辺は迎え撃つ長野勢と毎年の合戦場だった。
第二に一騎打ちは去年まで武田勝頼と藤井豊後だったのが今年は「武田義信」と
藤井豊後に変わっている。もし、義信なら1557年の瓶尻合戦が想定となるが
去年までの勝頼なら1566年の若田原になるが歴史上、藤井豊後と格闘したのは
今年の大河の勘兵衛嫡子の黒田直政のように猪武者の如く突出した勝頼だ。
「去る永禄六年(実際は九年)、上州箕輪、松山にて四郎殿十八歳の時初陣に、
長野が内にて覚ある藤井豊後、物見に出でて帰るを追い懸け、組み討ちになさるる。
其の儀御屋形信玄公へ深く隠し申し候。飯富兵部殿見給ひて、我等に腹を切らせんと
御叱り候事」 (『甲陽軍鑑』品四〇より)とあるから。
業政・秀綱出撃は去年と同じだが去年までの1566年を連想させる勝頼が出る時期に
その五年前には亡くなっている業政が着到状を受け取ったり出撃したりしていた
方にいかに何でも変だなと思っていたから史実ではないお祭りとはいえ、今年のほうが
安心できる。
模擬合戦は前後6回も行われるがご年配の方も居られるので相当な重労働。

箕輪92 模擬合戦


戦況を見つめる業政たちの城将。



義信と藤井豊後の一騎打ち、義信劣勢で部下の進言で退く。この進言をした若武者が
後に倉賀野16騎の代表格・倉賀野淡路守。



長野業政と上泉秀綱の出撃。秀綱は長野家滅亡時、武田信玄の仕官要請を断り、それを
惜しんだ信玄の偏諱授与により、諱を信綱と改めたという逸話が『甲陽軍鑑』にあり
多くの資料は信綱となっている。

箕輪93 一騎討ち


すっかり城を囲まれたとき、攻城側を乱すため上泉伊勢守秀綱の一騎駈け。
群がる武田勢を縦横に蹴散らすので拍手喝采。

やがて武田軍は撤退、長野勢の勝鬨で模擬合戦は終了。
やはり、長尾景虎が川中島に出陣したとの報を受けて武田軍は兵を退いたという事か?




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