昨日、「たかたか」さんの「岩神の飛び石」の記事を読んで
ブラリと前橋に向かった。r-6にぶつかってから大渡橋を渡って
東進し「岩神信号」から三つ目の信号四つ角の神社に着く。
r-4を使って赤城方面に行くときに何時も見てはいるが見物は初めて。
いきなり豪快に黄葉した銀杏の木がお出迎え。市街地なので特別に
目立つ。
稲荷神社特有の多数の幟に囲まれてはいるが伊勢崎の小泉稲荷を見て
しまっている眼には如何にも小振り。
この稲荷は江戸時代初期に創建されたとの説明。前橋藩初代藩主の
酒井重忠が、当地の巨岩の上に稲荷神を勧請したのが創建の由来
であるとか。巨岩の上の神という事から「岩神稲荷神社」と呼ばれる
ようになり、当時の村名も「岩神村」となっていたらしい。
だが平成の大合併でこの神社の所在地は「岩神町」では無く
その東隣の「昭和町」である。1965年に前橋市萩町、岩神町、上小出町、
下小出町の各一部が合併して成立した地名で群馬大学昭和キャンパス
や前橋市立敷島小学校・共愛学園短大などがある。
尚、この初代藩主は本能寺の変直後の家康の伊賀越えの時、
伊勢白子で家康一行を船で出迎え、その安全を確保した功績により、
1590年に家康の関東移封後に武蔵川越に1万石の所領を
与えられていたが関ヶ原の戦いでも戦功を賞されて、上野厩橋に
3万3000石の所領を与えられている。
右脇に回ると奥に続く本殿らしきものが良く観察できた。
社殿裏には小さな石祠がずらり。良く見るとお狐様が供えられて
いるからこれらも小さな稲荷神社かな?
表には巨木が数本。
このご神木は「交通安全榎」と謂れ、昔からこの地を行きかう人々の
交通安全を見守った来たとされる。
こちらのご神木は「乳銀杏」と呼ばれ、母乳の出ない母親が乳房に
似た気根に触れ願いをかけるとご利益があるといわれている。
さて、見所の巨岩はこれ。周囲約70m、地表に出ている部分の高さは
約10m、そして地中にもさらに約10mも埋もれている模様で
赤褐色の火砕岩と溶岩で構成されているとか。
1938年に赤城山由来の「岩神の飛石」として国指定天然記念物に指定
されたが2016年の科学的分析調査の結果、約2万4,000年前の浅間山
大崩落による火山泥流で流されてきた、浅間山由来だと判明している。
巨岩の中腹に石祠が見えるがこれも稲荷神社かな。
説明板があり概略の経緯が記されているが画像に撮っても
良く読み取れない。
併記されている流路も画像では無理。
簡単に云うと
今から2万4300年前、浅間・黒斑山の山体が東へ大きく崩壊した。
岩雪崩は高速で流れ下り、東へ進んで白糸の滝付近の平坦な高まりに
達したのち、北と南へ分かれた。岩雪崩とは山体の一部が崩壊して高速で
滑り落ちる現象で水を含む泥流ではない。
北に向かった流れは長野原町応桑に多数の流れ山を形成したのち吾妻川に流入し,
「泥流」を引き起こした。この泥流は吾妻川を経由して利根川に流れ込むが
吾妻川が合流すると間も無く,利根川は勾配の緩やかな関東平野に入り,
流速は衰えていく。結果としてこの泥流は多量の土砂を運搬するエネルギーを
失い,関東平野の北西隅に扇状地を展開した。前橋と高崎は、その上に作られた
都市だし、この北へ向かった流れは「前橋岩雪崩」と云われる。
岩神の飛び石はこの時の置き土産で2016年の精査ではこの他に前橋の
「お艶ヶ岩」、烏川三石と云われる「聖石」「赤石」「川籠石」、
「渋川川島の浅間石」、中之条「青山の浅間石」「頭頸石(稲荷石)」も
同じ生成と云われているし南へ向かった流れは南軽井沢に流れ山を
つくったのち南西に向きを変え、佐久市塚原に達した。千曲川が
そのあたりで南西に湾曲して流れているのは、この押し出しによる。
相当量の土砂が千曲川を下ったと思われるが、
利根川の前橋台地に対応する地形は千曲川にみられない。この土石なだれ
全体は塚原岩雪崩と呼ばれるが唯一の置き土産の巨岩は「佐久市塚原赤岩弁天堂」
となって地元で大切にされている。
(画像左クリックで拡大、画面左上の左向き矢印で戻る)
群馬に残る数万年前の証拠品
ブラリと前橋に向かった。r-6にぶつかってから大渡橋を渡って
東進し「岩神信号」から三つ目の信号四つ角の神社に着く。
r-4を使って赤城方面に行くときに何時も見てはいるが見物は初めて。
いきなり豪快に黄葉した銀杏の木がお出迎え。市街地なので特別に
目立つ。
稲荷神社特有の多数の幟に囲まれてはいるが伊勢崎の小泉稲荷を見て
しまっている眼には如何にも小振り。
この稲荷は江戸時代初期に創建されたとの説明。前橋藩初代藩主の
酒井重忠が、当地の巨岩の上に稲荷神を勧請したのが創建の由来
であるとか。巨岩の上の神という事から「岩神稲荷神社」と呼ばれる
ようになり、当時の村名も「岩神村」となっていたらしい。
だが平成の大合併でこの神社の所在地は「岩神町」では無く
その東隣の「昭和町」である。1965年に前橋市萩町、岩神町、上小出町、
下小出町の各一部が合併して成立した地名で群馬大学昭和キャンパス
や前橋市立敷島小学校・共愛学園短大などがある。
尚、この初代藩主は本能寺の変直後の家康の伊賀越えの時、
伊勢白子で家康一行を船で出迎え、その安全を確保した功績により、
1590年に家康の関東移封後に武蔵川越に1万石の所領を
与えられていたが関ヶ原の戦いでも戦功を賞されて、上野厩橋に
3万3000石の所領を与えられている。
右脇に回ると奥に続く本殿らしきものが良く観察できた。
社殿裏には小さな石祠がずらり。良く見るとお狐様が供えられて
いるからこれらも小さな稲荷神社かな?
表には巨木が数本。
このご神木は「交通安全榎」と謂れ、昔からこの地を行きかう人々の
交通安全を見守った来たとされる。
こちらのご神木は「乳銀杏」と呼ばれ、母乳の出ない母親が乳房に
似た気根に触れ願いをかけるとご利益があるといわれている。
さて、見所の巨岩はこれ。周囲約70m、地表に出ている部分の高さは
約10m、そして地中にもさらに約10mも埋もれている模様で
赤褐色の火砕岩と溶岩で構成されているとか。
1938年に赤城山由来の「岩神の飛石」として国指定天然記念物に指定
されたが2016年の科学的分析調査の結果、約2万4,000年前の浅間山
大崩落による火山泥流で流されてきた、浅間山由来だと判明している。
巨岩の中腹に石祠が見えるがこれも稲荷神社かな。
説明板があり概略の経緯が記されているが画像に撮っても
良く読み取れない。
併記されている流路も画像では無理。
簡単に云うと
今から2万4300年前、浅間・黒斑山の山体が東へ大きく崩壊した。
岩雪崩は高速で流れ下り、東へ進んで白糸の滝付近の平坦な高まりに
達したのち、北と南へ分かれた。岩雪崩とは山体の一部が崩壊して高速で
滑り落ちる現象で水を含む泥流ではない。
北に向かった流れは長野原町応桑に多数の流れ山を形成したのち吾妻川に流入し,
「泥流」を引き起こした。この泥流は吾妻川を経由して利根川に流れ込むが
吾妻川が合流すると間も無く,利根川は勾配の緩やかな関東平野に入り,
流速は衰えていく。結果としてこの泥流は多量の土砂を運搬するエネルギーを
失い,関東平野の北西隅に扇状地を展開した。前橋と高崎は、その上に作られた
都市だし、この北へ向かった流れは「前橋岩雪崩」と云われる。
岩神の飛び石はこの時の置き土産で2016年の精査ではこの他に前橋の
「お艶ヶ岩」、烏川三石と云われる「聖石」「赤石」「川籠石」、
「渋川川島の浅間石」、中之条「青山の浅間石」「頭頸石(稲荷石)」も
同じ生成と云われているし南へ向かった流れは南軽井沢に流れ山を
つくったのち南西に向きを変え、佐久市塚原に達した。千曲川が
そのあたりで南西に湾曲して流れているのは、この押し出しによる。
相当量の土砂が千曲川を下ったと思われるが、
利根川の前橋台地に対応する地形は千曲川にみられない。この土石なだれ
全体は塚原岩雪崩と呼ばれるが唯一の置き土産の巨岩は「佐久市塚原赤岩弁天堂」
となって地元で大切にされている。
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群馬に残る数万年前の証拠品
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