クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

高崎市内文学碑一回り H-26- 7-14・16

2014-07-17 14:16:51 | 伝説・史跡探訪
先日来、梅雨の合間を縫って市内の芭蕉句碑と万葉歌碑を訪ね歩いたので〆は
市内文学碑となった。
但し、小生は「文学碑」なる範疇の正確な定義が判っていないので、漠然では
あるが明治以降の地元関連の文人・文学者の句碑や歌碑と言う事と勝手に
決め込んで市内を回って探すことにした。

手始めに自宅近くの飯塚町北部児童公園に向かった。ここは遊具の形から
通称で「タコ公園」、40数年前には我が家の子供たちもここで遊んでいた
記憶がある。



公園の北側に数基の石碑。



(1)【碑文】子どもらが 遊びつかれて 帰り行く かなたにいでし 月の大きさ 
                         田島武夫作
 


問屋町に向かって「ヨシダ」の角を問屋町駅に向かって途中で左折した
突き当たり。

公園入り口。



(2)【碑文】ふた方に 浅間白根の噴きけむり 直く立つかもよ ゆく春の空 

                            吉野秀雄 



 吉野秀雄(1902- 1967) 
近代日本の歌人、書家、文人墨客。号は艸心。多病に苦しみながら独自の詠風で
境涯の歌を詠んだ。  
実家は織物問屋の株式会社吉野藤。雑誌『創元』の創刊号に「短歌百余章」
を発表し次いで『鹿鳴集歌解』、『寒蝉集』、『早梅集』を刊行して歌壇に
地位を確立。戦前から引き続いて鎌倉の文化会のために定期的に『万葉集』
を講義し、中村琢二、上村占魚、松本たかしらの知遇を得て上信越から
関西各地へ旅に出て旅記を著す。


高渋線を北上、三つ寺信号の次の堤下公園信号を右折、道なりで公民館駐車場。
隣にかなり広い芝生の堤下公園、この西北隅に石碑。



山村暮鳥の解説板は似顔絵付き。


 
(3)【碑文】かはたれの そらの眺望《ながめ》の わがこしかたの さみしさよ。
そのそらの  わたり鳥、 世をひろびろと いづこともなし。

        山村暮鳥 「独唱」



山村暮鳥 (1884-1924)                       
郷土の詩人、旧群馬町の出身である山村暮鳥の詩碑。
山村暮鳥は明治・大正期の詩人、児童文学者であり、公園のすぐ横には、
暮鳥がかつて代用教員として教鞭をとった「高崎市立堤ヶ岡小学校」がある。
校歌の歌詞には「暮鳥のこころ だきしめて」の歌詞があると聞く。

更に北上して足門信号先で群馬図書館方面に右折、広大な敷地の市民活動
センターと市教育センターへ。
敷地東北の角に石碑。

(4)【碑文】 松にも椎にも ほのかな風の翳がある しんとして‥‥ 月の匂ひが
                       とめどなくながれる

                       山村暮鳥 



群馬県下で最初に立てられた暮鳥の碑で、詩集『月夜の牡丹』から「月」を
碑にしたもの。 高崎市 足門町 旧中央中学校の校庭。 

隣に「建碑の記」があるが刻字が小さく写真向きではない。



近くに古い三国街道「道しるべ」、正面に「志ぶかわ道」、左に「たかさき道」、右に「いたはな道」、
裏に「中里村有志」とあり1649年の銘。



市の文化財指定で説明看板も。



再び、三つ寺信号に戻り右折してr-10で西進、井出信号で再び右折、
文学館信号で左折すると直ぐに駐車場。
先ず珍しい暮鳥の詩文・風景 純銀もざいく
平仮名だけの九文字が九列、それが三段落もあり各段列の1-7と9列目は
全て「いちめんのなのはな」となっている。高さ150cmX横245cm

(5)【詩碑文】  いちめんのなのはな いちめんのなのはな ーーー

          山村暮鳥 



山村暮鳥(1884-1924)
群馬県の棟高村に生まれる。東京の聖三一神学校時代に文学に目覚め、
卒業後伝道師となる。 朔太郎・犀星らと交流し詩や童話・童謡を創作
、晩年には平易な言葉で自然賛歌を綴った。 代表作に詩集『風は草木
ささやいた』『雲』、童話集『ちるちる・みちる』。

やや北寄りの芝生の中に彫りの深い文明歌碑。160cmX260cmの大型。



(6)【碑文】  青き上に 榛名を 永久の幻に出でて帰らぬ 我のみにあらじ 

         土屋文明



土屋文明(1890-1990)
群馬県群馬郡群馬町上郊村(現・高崎市)の農家に生まれる。幼少期に伯父に
俳句を教わり、旧制高崎中学(現・群馬県立高崎高等学校)在学中から
蛇床子の筆名で俳句や短歌を『ホトトギス』に投稿。卒業後に恩師・村上成之
の紹介により伊藤左千夫を頼って上京し、短歌の指導を受け『アララギ』に参加
更に左千夫の好意により、第一高等学校文科を経て東京帝国大学(現・東京大学)
に進学。東大在学中には芥川龍之介・久米正雄らと第三次『新思潮』の同人に
加わり井出説太郎の筆名で小説・戯曲を書いた。1916年(大正5年)に
文学部哲学科(心理学専攻)卒業。
出生地の公園に立つ歌碑は、生前歌碑を立てさせなかったが、その功績と
百歳の長寿を伝えようと建てられたもの。
その左にどう眺めても読めないが最初の文字が「傘」らしい碑。
鬼城句碑? 本館に行って館員の方や学芸員の方に色々と教えて頂き
その時の資料で鬼城句碑と判明。

(7)【碑文】傘(カラカサ)に いつか月夜や 時鳥(ホトトギス)



市内には同じ句碑が山徳記念館の池の端にある筈。資料によると
「鬼城の句碑 故郷に移設」の記事が2010-5-14の上毛新聞に載っていた。
この文学館が2009年に開催した鬼城企画展の折に鬼城の晩年に
師事した福岡の貝島春光氏の親族が自宅にあった書簡等と共に寄贈したもの。

今度は市街地に向かって南下して両水ストアの先を右折してR-17の下を
潜って河川敷の並榎テニス場の管理棟脇。

(8)【碑文】 浅間山の 煙出て見よ けさの秋 村上鬼城  



これは指定文化財になっているでしっかりと碑文が添えられている。
石碑は全てこの位の扱いをして貰いたいものだ。



再び市街地に戻って成田町の成田山光徳寺の境内に駐車。
左手に太子堂の建物がある。そしてその前に何やら石の橋のような
物があって柱には「成田橋」と彫られている。
江戸時代の高崎城は「遠構え」「遠掘り」で守られていたらしく成田山の
前がその遠構えであった。明治時代の道路拡張でこの掘りに石橋が懸けられ
成田橋と名付けられたが、その後に掘りが埋めたてられたため、境内の中の
太子堂前に移設されたものと聞く。



(9)【碑文】 上州の 任侠の煙は こころ安  川名句一歩 



川名句一歩(1897-1952)
成田山新勝寺の執事を務めた僧侶で、高崎の光徳寺に仮住まいしたことがある。
俳句は高浜虚子に師事したホトトギスの同人。

(10)【碑文】 金屏に 描かん心 山聳え  高浜虚子 



高浜虚子(1874-1959)
正岡子規のすすめで俳句を始め、俳誌「ホトトギス」を継承し開花させた、
明治から昭和の俳壇のリーダー的存在。 虚子は群馬県と縁が深く、
前橋藩士大畠豊水の次女を嫁とし、長女は前橋に嫁ぎ、三女も太田に嫁いでいる。
光徳寺の 句碑は虚子の群馬県内唯一のもの。

(11)【碑文】 在らざら無 桜も香れと 忍哉 その梅か枝の 風のまにまに 
            武井梅坡、梅坡は十時園四起の号



最後に「和田の三石」の一つの「円石」、かって三石の探訪で来たことは
あるが碑文が読めないので歌碑であることは書けなかった曰く付き。
かつて畑の中にあったと言う この石は築城に使われなかった事は「立石」と同様。
善念寺の門前橋に使われていたものを明治の初頭に土屋老平氏が買い取り、
この石を父親の「武居世平」の碑文として建立、成田山に置いた。この時、
石は2面に切られており、その一面は善念寺庫裏脇にある。           

(12)【碑文】 動き無き 御代を祝ゆる 子の日には いはほに生ふる 松を引くらん

            武井四平 (四平は十時園四起の義父でもある武居世平)



(13)【碑文】 春風や 心してふけ 動かざる みことをまつる 花のさかりに 
十時園四起


十時園四起 (1831-1905)

 幕末-明治時代の日本画家,狂歌師。
高崎の人、岡本秋暉らに絵をまなぶ。武居世平(初代菫庵東雄)の次女と結婚。
3代菫庵をつぎ,高崎水魚連の判者となった。姓は金井,のち武居。画号は梅坡。

末広町文化会館に移動。ぐるっと捜し歩いて最後に発見。逆に回れば直ぐだったのに。
若しかすると人間は本能的に時計回りをするのかな?



(14)【碑文】大人達が酒を呑みながら 地球滅亡を言う そばで赤ん坊がニコニコ 笑っている

                      豊田一男 



豊田一男(1909-1989)
 北海道に生まれ東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業。その後30年間高崎市内の
高等学校の美術教師を務めた。二科展などにも出展し蝋画を普及した。
詩や随筆でも数々の文芸誌に掲載された。

中央図書館に入り借り本を返却して2時間無料ルールを悪用?して裁判所へ抜け出す。

(15)【碑文】  新米を 食うて養ふ 和魂かな   村上鬼城  高松町・前橋地裁



取って返して桜橋脇に城址看板と隣に句碑。



(16)【碑文】 ゆさゆさと大枝ゆるる櫻かな      村上鬼城  高松町・桜橋



信号を東進して鬼城旧宅のあった鞘町。先ず鞘町ビル脇を入ると記録されているが
行って見たらビルは改築されておりその東端は何とパーク500駐車場の入り口だった。



入ると直ぐにゲート上に案内表示。



旧宅の見取り図。



そばのエレベーターにも鬼城の名前が冠してある。



説明板に「冬蜂の 死にところなく あるきけり」の句が添えられているがこれは元の
鬼城旧宅跡にあった句ではない。



写真入の鬼城の解説板。こんなに場所が変化しているは思はなかったので苦笑いで駐車場をでる。



大通りに戻って信号から「さやもーる通り」に右折。直ぐに形は違うが二つの句碑。



(17)【碑文】雹晴れて 豁然とある 山河かな     村上鬼城



(18)【碑文 けさ秋や 見入る鏡に 親の顔    村上鬼城  鞘町鬼城旧居跡



住居跡の案内道標、矢印で50Mとあるがそれがさっきの駐車場の中の事。



さやもーる通りを更に南進すると右のパーク500の屋外駐車場との境に
車止めを兼ねるのか石柱が多数、その何本かの柱が鬼城句碑になっている。旧宅跡を潰した
駐車場の些細な罪滅ぼしの積もりなのかな?見つけた六基のそろい踏み。















図書館に戻って車を出し田町北から北通町の細い道を本元寺へ。



(19)【碑文】  雲あそぶ 泰山木の 花の天   田島武夫 



 田島武夫(1899-1987) 明治32年に高崎に生まれ、生涯教職の道を歩み、
 小学校の校長を務める。群馬県歌人クラブを創設しその会長をも務め、
俳句は村上鬼城に師事した。

今度は「あら町」信号を駅に向かって一つ目の信号右折して延養寺の裏手に路傍駐車。



表門に向かって山門脇。

(20)【碑文】 はじめて菊をつくる  植えて待てば げに 長月や けふの きく  一紅
羽鳥一紅



羽鳥一紅(1724-1795)句碑の経歴説明板。



車に戻ってぎょっとする。警官二人が車をチェックしている。さては駐車違反で
永年のゴールドに傷が付いたかと観念したがお説教だけで罰則なしで無事放免。
腕章をみたら違法駐車取締りとあった。そう言えば今は安全週間だったかな?
反転して今度は高松町の高崎公園に向かう。



公園周辺には駐車場所が無いので仕方なく「公園亭」さんにお願いして場所借り。



大きな白木蓮の巨木。県指定天然記念物



(21)【碑文】 白木蓮の 花の千万 青空に 白さ刻みてしずもりにけり 吉野秀雄



吉野秀雄(1902-1967)
高崎に生まれ富岡で育ち、鎌倉に永住した。会津八一に師事した 歌人、書家、
文人墨客。号は艸心。
多病に苦しみながら独自の詠風で境涯の歌を詠んだ。

(22)【碑文】 かわらざる ものに川あり 夏つばめ    上村占魚 



裏面に「烏畔句会」、この辺は確かに烏川河畔だから地元の句会だろう。



上村 占魚(1920 - 1996)
俳人、随筆家。熊本県人吉市生まれ。本名・武喜。東京美術工芸技術学校卒。
『ホトトギス』同人。松本たかしに師事。『みそさざい』主宰。

(23) 【碑文】 野ずらの 雲の陰に  桃李の花咲く路がかくれてゐた。 
ぼくがそこの座にうずくまると  涅槃にゐるような心地の眠りをもよほす。
ひとびとは 噴上げの瓦斯のけむりに紛れ しきりと杖をふつて 
この花の雲を越えてゆく。      「桃李の路」岡田刀水士   



岡田刀水士(1902-1970)
群馬師範学校在学時に萩原朔太郎に師事し、口語自由詩を継承した。戦時下でも教師を
しながら抒情詩を続けた。 戦後の1950年、自ら創刊した詩誌「青猫」と命名し、
朔太郎を敬愛した。

公園内の噴水



何故かタヌ公・笠をかぶり、徳利を持ち、一見たぬき。
これは高崎城址に伝わる妖怪伝説を伝える為に建てたらしい。
それは東京本所に伝わる置行堀と同じ様な内容で、堀端に出没
したとされる妖怪は、実はたぬきの仕業と分かつたと言う言い伝え。



公園東端の頼政神社。



(24)【漢詩碑】 上州無智亦無才 剛毅木訥易被欺 唯以正直接萬人 至誠依神期勝利
(上州ハ智無シ亦才無シ 剛毅木訥ニシテ欺かれ易シ 唯正直ヲ以テ万人ニ接シ
 至誠ニ依リテ神ニ勝利ヲ期スル)
      内村鑑三/漢詩碑 宮元町・頼政神社 





  内村鑑三(1861-1930)
1861年)、高崎藩士の長男として江戸に生まれる。5歳の時に、高崎に移住。
日本のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。福音主義信仰と時事社会批判に
基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。

一旦、国道に下りて回り込んで若松町・龍廣寺。



鬼城の墓地。



(25)【碑文】 泉わくや ときどき高く 吹上ぐる  村上鬼城 若松町・龍廣寺



(26)【碑文】 大寺や松の木の間の時雨月 村上鬼城  若松町・龍廣寺



村上鬼城(1865-1938)
 慶応元年鳥取藩士の子として江戸に生まれ、明治6年高崎に移住し村上家の養子。
 高崎育ちで明治維新を経て明治・大正を生きた俳人。
群馬県内を中心に30基を越える句碑がある。

今度はR-18で下豊岡、判り難い細道を辿って万日堂。今回の範囲の明治以降の文人の
範囲ではないが、かって拓本教室に行っていた頃、初めての野外練習がこの碑文だったので
通り掛りのおまけ。



(27)【碑文】 おもしろひ 夢見る顔や 涅槃像    白井鳥酔



白井鳥酔(1701-1769)
江戸中期の俳人。上総国(千葉県)の支配代官を勤める家に生まれ家督を継いだが、
罷免され隠居剃髪して俳諧に専念した。
萬日堂は白井鳥酔が多くの弟子に俳句を教えるべく度々訪れて宿泊していた庵。
上州俳壇に強い影響を残す。

再びR18に戻って小林山達磨寺。



石段脇に中曽根夜荘の句碑。夜荘とは郷土の元総理・中曽根康弘氏。敬意を表して
文人の仲間入り。

(28)【碑文】 初市や 紐たして背負う 大達磨



石段上の達磨堂の左に一基。

(29)【碑文】 冬麗の 街ひき寄せて 赤城聳つ   清水寥人



清水寥人(1920-1990)
 大正九年碓氷群松井田町の横川に生まれ国鉄に36年間勤めた後,俳句雑誌「あさを」
を創刊した。 小説「機関士ナポレオンの退職」で芥川賞候補となったが田辺聖子の「感傷旅行」
に僅差で敗れ、受賞を逃す。文芸誌「上毛文学」を創刊。

更に奥の木立の中に。

(30)【碑文】  秋の空 立ち出てみれば 何もなし 内藤鳴雪 八幡町・小林山



内藤鳴雪(1847-1926)
幕末の伊予松山藩の武士、明治期の官吏、明治・大正期の俳人。
幼名助之進、元服して師克、のち素行。俳号の『鳴雪』は、
『何事も成行きに任す』の、当て字という。

石段を降りて咲き誇る百合の香りに包まれながら東側に。



洗心亭前。



(31)【碑文】 ICH LIEBE DIE JAPANISHE KULTUR 24 8、34 Bruno Taut
(我 日本文化を愛す 1934年8月24日)
                     ブルーノ・タウト



ブルーノ・タウト
 (1880-1938)年ドイツに生まれた建築家。ナチスを逃れ昭和8年に日本に亡命。
東京・仙台・高崎で工芸の指導を行なった。


小林山を辞して東進して護国神社鳥居前。



(32)【碑文】 雪よりも 身にしむ風ぞ 山桜一紅  羽鳥一紅  八千代町 護国寺



羽鳥一紅(1724-1795)
江戸時代中期の俳人。 下仁田に生まれ、高崎の絹問屋羽鳥勘右衛門(俳号麦舟)の妻。
建部綾足学び句集「あやにしき」のほか,天明3年の浅間山噴火を
記録した「文月浅間記」がある。

山に登って白衣大観音のある滋眼寺。

(33)【碑文】 観音に 恋あり 秋の雲近し  松野自得 がどうしても見つからないので
後日調査。

松野自得 (1890)~ 1975)
 本名は 貞安は群馬県館林市で生まれたが母が前橋市東大室町の最善寺
  城井一秀と再婚したことで、最善寺に移った。大室尋常高等小学校尋常科を
  卒業後、仏教系中学校を経て、埼玉県の寺院全洞院に入った。
  日本画の修行を志して上野美術学校に入学。はじめ浮世絵を
  学んだが、やがて山内多門の門下生となり、山水画に転向、自得と号す。
、「ホトトギス」20周年記念号に投稿した写生文が高浜虚子に認められ、
  以来虚子門下となった。
 虚子の妻が前橋市出身であった関係から、群馬県の俳壇は虚子の指導によって
  近代化の道を歩んだ。高崎市の村上鬼城、館林の前山巨峰らとともに、
  禅僧らしい飄々とした自由さのなかに人生を温かくとらえる独特の世界を
  作った自得の俳句も多くの共鳴者を得た。

本堂脇に前住職の大きな句碑。これも敬意を表して仲間入り。

(34)【碑文】前(さき)の世も 先の世もまた さくらみち



(35)【碑文】まぼろしの 花沸く花の さかりかな 上田五千石



上田五千石(1933-1997)
上智大学文学部新聞学科に入学。1954年、極度の神経症に悩むが、同年秋元不死男に師事、
「氷海」に入会してのち快癒した。在学中は「子午線」や関東学生俳句連盟にも参加。
有馬朗人、深見けん二、寺山修司といった俳人と交流し「天狼」にも投句した。
1956年、22歳で「氷海」同人。1957年、堀井春一郎、鷹羽狩行らと「氷海新人会」結成
。1968年、句集『田園』により第8回俳人協会賞を受賞。1973年「畦」を創刊・主宰。
1997年、解離性動脈瘤により杏林大学付属病院にて死去。63歳。
「畦」主宰は娘の上田日差子が継いだ。

東端の一路堂に向かい入り口。ここから石段で大きく下る。



一路堂全景。



(36)【碑文】 観音の墨絵三万三千有余態居士を離れて居士のうちに帰す       
                     鹿児島寿蔵  観音山 一路堂庭内 



鹿児島 寿蔵(1898 - 1982)
人形作家で歌人。福岡市生まれ。有岡米次郎に博多人形製作を学ぶ。
1932年紙塑人形を創始、1933年日本紙塑藝術研究所を開き、1934年人形美術
団体甲戌会を結成する。
1936年帝展に入選する。アララギ派の歌人でもあり、島木赤彦・土屋文明に師事
1945年短歌雑誌『潮汐』を創刊する。1961年紙塑人形の人間国宝となる。1968年、
『故郷の灯』他で第2回迢空賞受賞。勲三等瑞宝章。門下に三国玲子など。

高崎市出身の故馬場一路居士は、生涯に33,787本もの観音施画をはじめ数多くの
書画を残した信心の人。 一路堂は、昭和49年、未亡人の発願により慈眼院の一隅に
建立され、居士の遺墨が常時展覧されている。


一旦途中まで山を下って清水寺の上の駐車場。

(37)【碑文】 法師蝉のこえのさわりのせわしくて 日すじは既に黄の色を帯ぶ
                     田島武夫  清水寺観音堂左手の土手



その土手を更に上に登る。記録では田村堂となっているがそれは方向違いの間違い。

【碑文】 天地のおのじからなる ふみよけて もことの道を人は ゆかなむ

                             田島尋枝 



田島尋枝( 1846-1891) 
幕末-明治時代の国学者。家は代々群馬県高崎で鰻店を営み清香庵と称した。
家業のかたわら新居守村に学び,和歌をよくした。号は橘園。
著作に「万葉集長歌批点」「秋野のあそび」など。


R-17からr-121に入り上佐野信号から右折。

(38)【碑文】  寒椿 赤し一揆の 血を享けて  関口ふさの 上佐野町・西光寺



関口ふさの
1925年高崎市生まれ。あさを社を設立、代表取締役。群馬県文学賞 受賞。
 群馬県文学賞 受賞。句集『遠い音』『碌々』『晩晴』群馬県俳句作家協会々長


再びR-17で倉賀野・養報寺へ。倉賀野町信号を右折して南へ、線路を通過して直ぐ右。



(39)【碑文】 小鳥この頃 音もさせずに 来て居りぬ 村上鬼城  倉賀野・養報寺



万葉歌碑訪問で行った石碑の路に再び。

(40)【碑文】  ゆさゆさと大枝ゆるる櫻かな     村上鬼城  山名町・石碑の路



(41)【碑文】 良心の全身に充満したる丈夫の起り来らん事を 新島 襄  山名町・石碑の路



新島 襄(1843 -1890)
安中藩江戸屋敷で、安中藩士・新島民治の子として生まれる。学位は理学士。同志社英学校
(後の同志社大学)を興した。明治六大教育家の1人に数えられている。大河ドラマ新島八重の夫。

(42)【碑文】なみだおおければ きみもえられず こころすずろに さびゆけり 
                     「おもひ」大手拓次 山名町・石碑の路 


  
大手拓次(1887-1934)
現安中市磯部温泉の温泉旅館・蓬莱館[1]の家に生まれる
同県の安中中学校、高崎中学校、早稲田大学第三高等予科を経て、
早稲田大学文学部英文科に入学。この頃より詩を発表しはじめた。1912年卒業。
1916年にライオン歯磨本舗に就職。以後、生涯をサラリーマンと詩人の二重生活に捧げた。
学生時代以来の左耳難聴や頭痛に悩まされ、その後もさまざまな病気で通院、
入院を繰り返すなど健康状態は概して良くなく、最後は結核によって亡くなった。

(43)【詩碑文】 おい そっと そっと しずかに 梅の匂いだ 
「梅」 山村暮鳥 山名町・石碑の路 



山村暮鳥(1884-1924)
 群馬県の棟高村に生まれる。東京の聖三一神学校時代に文学に目覚め、
卒業後伝道師となる。 朔太郎・犀星らと交流し詩や童話・童謡を創作、晩年には平易な
言葉で自然賛歌を綴った。 代表作に詩集『風は草木にささやいた』『雲』、童話集
『ちるちる・みちる』などがある。

(44)【碑文】 木枯らしの ひた吹く杜の 喬木の 枯れ梢に鷹が 風に 向かいおる 
                      大沢雅休   山名町・石碑の路 



大沢雅休(1890-1953)
高崎市生まれ、大正-昭和時代の歌人で書家。
1890-1953 大正-昭和時代の歌人,書家。島木赤彦,橋田東声に短歌をまなび,
大正12年群馬県で歌誌「野菊」を創刊。
上京後比田井天来に書をまなび,昭和13年平原社を結成。作品に棟方志功との合作
「裸振舞」がある本名の読みは雅休(まさやす)。
ひたむきにひとつのものを押しすすめ いゆかばよろしゆきつかずとも(墓碑銘)

さやもーるの六基を入れれば丁度五十基となり切りがよいので此処まで。

デジブック 『高崎市内文学碑』

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