クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

2019年が始まった H-31- 1-1

2019-01-01 16:03:59 | その他
我が家の元旦はニューイヤー駅伝が拙宅近くを通過するのでその見物で
始まる。県庁前をスタートして12.5Kの高崎市役所の中継所手前の
位置なので選手たちは大きくバラけることなく集団のまま
通過するため見物と云ってもほんの一瞬で目の前を疾駆してしまう。
それでも毎年17号線沿線は観客で埋まるし主催の毎日新聞が
こまめに小旗や特集新聞を観客に配るので人気はある。
その一瞬の動画。

ニューイヤー駅伝


帰宅して直ぐに10時からの町内会年賀挨拶に顔出し、配達されている
年賀状にざっと目を通してから高崎神社へ初詣。
例年の如く路上駐車で神社の鳥居を潜ると本殿への参拝客が
長蛇の列。



途中から振り返ってもこの状態。何と日本人は忍耐強くお行儀が
良いのか? 



足弱家族連れではとても無理なので隣の大国神社で略式の初詣。
お札や破魔矢を売る社務所も大混雑。



漸く抜け出して末広町のファミレスで軽食。元旦のファミレスは
空いている筈との認識は間違いでほぼ満席。

食事後に市役所前を通過して高崎駅西口、「あらまち」交差点から
西口までは通行止めてダルマ市。

西側のイベント広場では頼政太鼓の演技中。一曲が長いので
1/3に短縮してYOUTUBE。

高崎ダルマ市頼政太鼓


ダルマ市の様子。

新春高崎ダルマ市



蛇足 正月早々蛇足の書き足しで一寸失礼。
高崎神社の社伝によると、1243年に上野国和田城主で
あった和田小太郎正信が、相模国三浦郡の熊野権現を城中に勧請し、
「熊野神社」と号したのが創建とされるとか。
随分古い話だが高崎に伝わる伝説と一致する。
それは「 1213年、北条義時に挑発されて兵を動かした「和田義盛」は
「和田合戦」で一族を殲滅されるが、生き残り(六男又はその子、或いは
八男と諸説あり)が逃れたのが現箕郷地区の「和田山」、推定1230年頃
当時の「赤坂庄」に移ってそこを「和田」と命名」したというもの。
1243年と云うとその前年に北条三代目の泰時(義時長男)が亡くなり
四代目の経時が継いだ時期で著名な時頼は五代目、元寇に対峙した
時宗は八代目である。
その後、1598年に井伊直政が上野国中12万石を拝領して
高崎城を築城する際、この熊野神社を旧城内から現在地に遷座し、
高崎総鎮守としたらしい。
1870年に村社に列し、1885年に郷社に昇格、1907年以降、境内
末社12社と高崎市内の36社を漸次合祀し
て行き「高崎神社」と改称、1925年に県社となっている。

ところが爺イが戦時中の疎開で高崎にいる頃は未だ昔ながらの
「おくまんさま」と称していた。
どうやら熊野神社に願をかけると必ず成就すると、厚い信仰を集めて
「恩熊野様」と崇拝されてきたらしいが「恩熊野様」が
「おくまんさま」と聞こえたため、「おくまんさま」と称され親し
まれてきたと説明されているがそれには納得できる。

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