前例主義に拘る憂うべき日本の風潮
▼前例のないことに挑戦した開拓者たち
先のブログ「学力とは何か」に書いたときに書き忘れたことがある。それはそこで紹介した人たちはみな「前例のないことへの挑戦者たち」であったということだ。人を惹き込み納得させる個性や思考はそこから生まれている。
今、根絶することが難しい病原菌のように「みんな一緒」の悪しき集団主義が日本の教育界やマスコミを支配しているが、そういう中からはこういう輝かしい個性は生まれないのではないかと思う。彼らはそういう環境や風土の中にあっても、それに押し潰されることのない強い個性の持ち主たちだったとも言えるのかも知れない。しかし、それは彼らが教育界やマスコミ等の支配的な風潮に抗し、時には反旗を翻しながら、自身の思いを貫き通してきたから可能となったことなのではないか。
▼「出る杭」を異端として排除する教育界やマスコミ
いつものことだが、教育界やマスコミはそういう強烈な個性の持ち主の成し遂げた業績を賞賛し国家国民の栄誉のように褒め讃える。けれども、彼らがそれを大切な行動原理として自ら体現したり積極的に推進してきたとはとても思えない。「出る杭は打たれる」というコトワザがあるが、むしろ日本の教育界やマスコミはそういう個性を叩き潰すことに極めて熱心であったし、今もまだそうであるように見える。
そういう場合には「国民の声」に従うとか「国民の声」を代弁すると言いながら、その実は己の狭量の器に合わせた独善的な論理を振りかざしていることが多い。彼らの許容度、想像力や理解力を超えた現実が立ち現れると、彼らはそれを見守り育てる側に回るのではなく、「正論」を体現する者として、そういう人たちを異端として叩き潰す側に回って来たのである。
▼マスコミがいう「国民の声」とは何か
たとえば、「みんな一緒」の学校教育の風潮に洗脳された子どもたちが少しでも「毛並みの違う仲間」を嗅ぎ出しいじめ、さらには不登校に追い込むように、学校教育やマスコミの中には個性ある者たちや変革を志す者たちを押し潰そうとする空気があるのは否定しようがない。彼らは平時には国民の声、つまりは世論の代弁者の如く振る舞い、その役割を自らのステイタスとしているが、ひとたび乱世となり国民の多くが変革を志向し実践し始めた時には、後ろ向きの警世の大文字を火の付いたように声高に叫び始める。そして自分たちの偏狭な主張があたかも国民の声でもあるかのように書き立てるのだ。
しかし、彼らの主張と国民の声が明らかに違うことが隠しようもなく露わになることもある。その時には、あろうことかマスコミの一部には「国民が間違っている」「国民の判断・選択がおかしい」とまで言い出す者まである。たとえば、沖縄県民の動向を見守るため決定を先延ばしした普天間基地移転問題についても(つい最近、名護市で移転反対派の市長が誕生した)、アメリカに取材に行った某新聞記者が「『私たち』は延期に反対している」という趣旨のことを言ったとか。日本政府を押しのけてまで新聞記者が主張する「私たち」とは何なのか。マスコミは往々にしてそういう偏光フィルターを通して記事を作り上げ、それがあたかも世論であるかのように報道することもある。ここには明らかにマスコミによる意図的な世論操作がある。
▼未来に夢や希望を持てない日本の若者たち
戦前戦中の時期、国民に真実を隠蔽したマスコミの大政翼賛的報道や戦後の民主主義を装った国家主義的全体主義的報道や学校教育のあり方を見るまでもなく、今までのマスコミ報道や教育は何を目的に、どんな未来の国家を志向して営まれてきたのか、今一度改めて問われなければなるまい。
今までの日本は独立国家よりは属国志向、愛国を称えながら実は亡国の勧めであり、国民主権を称えながら実際の「公」(パブリック)の主体は国家や市場原理にあり、次代の日本を担う社会人を育成すると言いながら権力や権威に物言わぬ羊のような国民を大量生産し、時の為政者に都合の良い国家運営をしてきただけではないのか。
そして、結果として我々国民は、未来に夢や希望を持てないだけでなく、現在今生きているこの社会にさえ明確な目標や役割を見いだせない多くの若者達を排出するに至り(国際社会の中で、日本ほど若者たちが夢や希望を失っている国はない、それなのに多くの若者は羊の如く「つぶやく」だけで、その根本原因を問おうとはしない)、国際社会の中で斜陽の一途を辿ることになったのだ。
▼政治が変われば教育も変わる?
本来、教育に携わる者は政治には口を出さない方がいい、問題がこじれ、あらぬ方向に行かぬとも限らないと考えて、自主規制してきた部分がある。しかし、それで教育の何が変わっただろうか、政治の何があるべき方向に向いただろうか。
今まで自分なりに謙譲を徳と考え、事を荒立てぬことを旨としてきた部分がないわけでもない。そういう中で自分なりの道を追求してきた。しかし、もはや今の日本に謙譲を美徳とする風潮は基本的にない。退けばその分相手は押して来るだけである。悲しいことだがそれが現実だ。
未来への想像力を失ったマスコミは、旧態依然の価値を振り回してますます矮小化の一途を辿り(権威をバックにした一方通行の情報が尊重されなくなったのは、単にインターネットのせいだけではあるまい)、教育では旧来の自民党・文科省・各教育委員会の域を超えて民主党・日教組路線が強まるという逆転現象が起きてきている。が、それによって教育方針が即座に180度変わるとは到底思えない(教育が政治とは無縁ではないとしても、風見鶏のように風向きによってくるくる変わるとしたらそれも恐ろしい)。かえって今までの教育実践の不備が正当化されかねない危険さえある。そして、実際にそういう兆候は見えている。
▼教師には「先ず隗より始めよ」と言いたい
そういう社会の現状に、今後は教育を享受する子どもという独自の視点から積極的にコミットしていくことも必要だろう。沈黙は金でも銀でもない。それは昔の戯言である。今は沈黙は現状の是認に他ならない。ヘタをすると教育は今後、教師主導でますます悪化の方向を辿らないとも限らないのだ。
今一度、考えてみよう。フリースクールで子どもたちの側に立つ者は、今まで現状の学校教育に「ノー」という行動を取った子どもたち(これは別の意味で個性的な勇気ある行動だ)を支援して来たし、今後もそうである。学校が子どもが主役の教育の場とはなっていない限り、今後も学校教育を見る目が根本的に変わることはないだろうと思う。
もし、学校教育を根本から変えたいのであれば、まずは学校を解体することからはじめなければなるまい。幸いにして学校教育の改革を唱える教師がいるならば、「先ず隗より始めよ」と言いたい。机上の空論はもういいのである。今回の政変が良かったのは、もう言い訳は通用しない時代が来たということにある。そういう思いを一層深くするこの頃である。
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