教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

東川口中3女子父親刺殺事件から(2)

2008年07月21日 | 教育全般

長女、父の「勉強しろ」に反感か 川口・刺殺事件(朝日新聞) - goo ニュース

東川口中3女子父親刺殺事件から(2)

さて、先に述べたことをどうすれば理解してもらえるだろうか。その説明がなかなか難しい、ということ自体がこういう事件の起きる要因を説明する難しさに繋がっている。それは世間の常識レベルで語れば理解が行くということには行きそうもないからである。

たとえば、私どものやっている「フリースクール」という活動、世間一般の人で、もっと狭く考えて教育関係者の中で、もっと狭く考えて、現場の学校教員の中でさえ、この活動を正確に理解している人がどれだけいるか。近隣の学校教員の中でも(その学校から実際に私のところに生徒が来ている)「フリースクールになんか行ったらまともな学生や、社会人になれないよ」というような無知・蒙昧の言を平気で生徒やその保護者にしている。現実には、今春3月このフリースクールを飛び立った生徒の中にはいわゆるサポート校のような高校に行く子もいれば学内ではトップクラスの学力のある生徒で実績のある進学校に進んだ生徒もいるし、OB生の中には東京や京都などの指折りの有名大学(本当はこういう言い方は好きではない)でばりばり活動したり研究したりしている学生たちがいるのにである。

敢えて中高の教員にもならず、教育事業としては助成金の対象にもならず採算の合わないフリースクールに身を投じ、進学塾のように学校教育の補完ではなく敢えて子どもの視点に立った独自の教育方針を貫こうとする…教員等の教育行政の側に身を置く人たち(おそらく“教育は学校の中で行うもの”という観念から自由になれない)にとってはフリースクール活動という行為自体が理解を超えた範疇に属するのではないかと思う。

しかし、そういうような教育の視点がまったく欠落している教育の常識的な考え方からは、今回の事件はほとんど見えて来ないのではないか。なぜなら、そこにこそ「起きるにはやはり訳があるのである」と語った、「その訳」に繋がるものがあるからである。

話はまた逸れてしまうが、川口市で中3女子による父親刺殺の事件があった日、「フリースクール・ぱいでぃあ」ではちょうど「教育広場:親の会・オフ会」という勉強会&相談会&討論会」を行っていた。その場で直接その話題は出なかったが、個々の子どもたちに何が必要か、どう考えるべきか、フリースクールでは何を行い、実際に子どもたちがどう変容したか…そのようなことを話し合っていた。おそらく学校の中ではほとんど話題にもならないようなことが話し合われ学びあったとも言えるかもしれない。そして、それは決して今回の事件とは無縁の話題ではなかったと思っている。

今、生徒の事件だけでなく、校長や教頭、一般教員だけでなく教育委員長まで絡んだ職員採用の汚職事件が大分県だけでなく全国の教育行政の問題にまで広がりを見せているが、今、日本のどこにまともな教育はあるのだろうか、と言いたいほどになっている。その教育の崩壊の渦中から今回の女生徒による父親刺殺事件は起きたと考えてほぼ間違いではあるまい。

不登校に見られる子どもたちの反乱、学級崩壊、学びからの逃走、学力低下、為政者の都合でころころ変わる数年先も見通せない日本の教育、教育の現状とは裏腹の教育スローガン、人を育てられない日本の教育、ひたすらロボットのように使われる人間を製造する教育工場としての学校、国際化の中で国際的視野や感覚を欠いた日本の教育、そして極めつけは学校教育に従ってひたすら言われたとおり勉強していれば視野狭窄の自ら考えないバカを作り出す日本の教育がそこにある。

こんなことを平気で言えるのも、私が教育行政の一員でもなく、学校教育に従事する教員でもなく、そういうシガラミからはまったくフリーなフリースクールの人間だからである。教育行政による金銭のヒモは一切ついておらず、保護者たちの全くの手弁当によって営まれている教育機関であるからである。この観点から見れば、日本の教育の様々な不思議は部外者には全く見当のつかないギルドの世界の出来事のように見えてくる。

今回の川口市の私立中3女子による父親刺殺事件は言葉ではとても形容できない悲惨な事件である。精神状態がどのようなものであったとしても、決して容認できる事件ではない。それによって一瞬にして彼女は自分に関係する全てを、そして彼女自身に繋がる全てを刺し貫き打ち砕いたのである。未成年者とはいえそれに一切の弁解の余地はない。だが、誰がそのような子どもを作り出したのか!? それこそが教育の責任である。

聞くところでは彼女は毎日朗らかに学校に行っていたそうで、100に1の可能性もないが、もしその子が事前に精神の苦痛を訴えて私どものようなフリースクールの門を叩いていたなら、おそらくその子へ何らかの手を差し伸べる方法はあったであろうし、このような事件を起こして全てを水泡に帰することもなくて済んだであろうと思われてならない。私たちはそういう危機的な状況の子どもたちを何人も扱い、救ってきた。そして事件に至らせるようにした子は誰一人いない。

だが、彼女の通っていた学校の関係者は誰一人彼女の異変に気付いていない。生徒一人ひとりにそのようなセンサーを働かせたり、見えない信号を受け止めるアンテナを備えたような教師が誰一人いなかったということではないのか。生徒たちも最初からそういう信号を発信することを諦めていたということもあり得るが。それでも見抜くというのがプロの仕事ではないのか。

ひとことで言えば、今回の事件は、「学校という教育工場が作り出した“利口” “いい子”という“バカ”」が引き起こした事件である。今、日本の中でこういう“バカ”が大量に作り出されている。教員養成や採用のあり方と共に、日本の教育の在り方を根本から考え直さなければ(ということは実際にやらなければということ)というところに来ているということだ。PHP研究所の亀田氏が“「教育改革」をすべてやめよ”という主張をされているようだが、私も基本的にこの方の言に賛成である。
(※“教育工場”という用語は鎌田慧氏の造語である)

(続く)



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