浅利被告の恩師の私大教授も口利き、元部下の江藤被告に(読売新聞) - goo ニュース
「どこまで続くぬかるみぞ」という感じの今回の大分県の教員採用に絡む汚職事件だが、「ああ、やはり…」と言った方がいいのか「えっ、まさか…」と言った方がいいのか、言葉の表現に迷う。
ただ長年民間の側から教育問題に関わってきた者の立場からすれば、「とうとう表に顕れたか…」というのが正直な感想である。今まで雑誌の活動を通じてもそういう関連の教職員の声や話題は幾つも耳にしてきた。「コネがなければ地元の教員にはなれない」というのは教員をはじめとする教育関係者の間では公然の秘密であった。
ということは、今回たまたま大分県で明らかになったようなことは、各都道府県レベルでは半ば常識に近い事柄であったとも言える。たまたま常識の通じないマスコミの人間の手にその情報が回ってしまったというレベルの問題ではないか:とさえ思える。誰かが何処かで「誰がそんな非常識な記者に情報をながしたんだよ!」とでも言っているのではないか。
その意味で今回の事件はまさに氷山の一角であり、大分県に限らずどの県でもあり得ることである。誰も敢えて猫に鈴をつける役をしようとしないだけである。その意味では、学校の教員同士の問題も組合の問題も視点を変えればコップの中の争いに過ぎないとも言える。今日職員同士が争っていても、一たび学校教育そのものが問題の俎上にあがった場合には、呉越同舟よろしく一致団結して守りに入るのである。
これは、近年の生徒の学びからの逃走の問題も、学級崩壊の問題も、学力低下の問題も、不登校の問題もみな同じである。たとえば、そこに県立の教員養成の大学や学部があった場合には、他県で学んだ(たとえば東大など)学生よりも優遇されるし、彼らが作り上げてきた伝統(たとえば校長・教頭はスポーツ系とか)が重んじられる。また、教員養成大学で教育行政に異議を唱えるような教授のいるゼミからは教員になるのは難しいなどという話も教員の卵の学生たちの間では常識として交されている。
大分県の教育長が自身の潔白を表明する会見の中で、「教育を行うものが…」という発言があったが、学校は教員のためのものという意識がのぞく。「子どもたちのために学校はある」という感覚はこの教育長にもないようだ。
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