教師が母子家庭児童に暴言
「家で朝ご飯を食べられないから、おかわりするのか」
昨日(2009年02月07日)の新聞等の報道でこういう記事が流れた。茨城県水戸市内の小学校の男性教諭(55)の仕業らしい。
小学校の教員として有り得ない言動である。酷い言い草だ。教師としての資格・資質に全く欠けている。この教委を庇う教委の言葉も見られるが、仲間内で庇い合うのはやめた方がいい。どこを向いて物を言っているのか。即刻退職にすべきである。弁解の余地はない。しかも、こういう言動は今回がはじめてのことではないらしい。この人にはもっと自分に相応しい場で働いてもらった方がいい。これ以上教職に留まることは、彼にとっても子ども達にとっても益はない。禍根を残すだけである。
何で教師の世界にはこういう人間が多いのか。新聞やテレビで、教師の不祥事が報道されない日はないくらいだ。人間の問題なのか、システムの問題なのか。
私の携わるフリースクール(ぱいでぃあ)にも、毎年母子家庭や父子家庭、離婚家庭などの子が来る。だから、そんなことを知らずにある子が何気なく両親や家庭のことを話していたら、相手から「家には父親は死んでしまっていないんだ」と打ち明けられて絶句するなどということもないわけではない。でも、不登校の子どもでもそういう子どもに対する配慮がある。いや、家庭生活や学校生活での辛酸をなめてきた子が多い分だけ、他人への配慮があるとも言える。それに比して、何だこの教師の態度は!それに何で教育委員会の連中までそんな教師を庇う姿勢を見せるのか。
子どもはこの教師の言葉を否定している。なのにこの教師は勝手に決めつけ、この子を笑い者にしている。それに、もし朝飯を抜きで来ていることが分かったとしても、この言い草はない。逆に、「お前は育ち盛りなんだから、いっぱい食えよ。元気なのが一番の親孝行だぞ」くらいのことがなぜ言えないのかな。
これはある国立大学の教員養成学科(教職課程)の教授の講演会で聞いた話だけれど、経済格差が進行し、至る所で社会の破綻が起きている中で、教職志望の学生達は今の子どもたちの(特に問題児と言われる子どもたちの)生活の現場がどんなにすさんでいる実態があるかまるで知らないし、教職志望の学生達が育ってきた生活空間もそれとは無縁の領域の場合が多いとの指摘もあった。だから、それを理解する感覚が身についていないのだと。
公立学校で働く教員の子供たちは、父や母の勤める公立学校にはまず行かない。ほとんどが私立学校志向である。その中で公立学校に行っている子どもは、塾に行って一生懸命勉強したけれども残念ながら合格しなかった子どもたちである。おかしな話である。教員の親ははそこで食い扶持を稼ぎながら、「パパが働いているような学校には来るな!」と言っているのである。だから、そのことを口に出すか出さないかは別として、自分の勤務する学校は我が子を通わせるに値する学校とは考えていないのである。
だから、学校の教員による学校改革に関する言動もどこか空々しく、行動にも熱意が乏しい。これはそれを指導し支える教育委員会も同じか。教育関係者が言っていることは果たしてどこまでが本音なのか。
たとえば、不登校でスクール(ぱいでぃあ)に通うことになった学校の担任から電話がかかることがある。(生徒が不登校になると校長や担任が挨拶にやって来るところもあるし、全く無関心を装うところもある)。が、なかなかやって来ない。しばらく経ってからこんな電話が入る。「すみません。有給が取れなくて…。行けなくなりました」これ、どういうこと! 教員の世界は完全におかしい! 学校は教師のためにあるらしい!子どものためではないようだ。
昨年、県教委に話に行った。そこで話したことの一つは、「学校を離れた子どもにも義務教育費を有効に活用してほしい」そのために「教育バウチャー」を発行する方向で考えられないか?これは教育棄民の状態にある不登校の子供たちに学習権・教育権を保証する当然の措置ではないか。ということを言って来た。数名の保護者を伴って。
で、そこで返ってきた回答はというと…、実にお見事!と感心するものだった。「趣旨は分かるけれども、学校に廻る教育費の7割は教員の人件費なんですよね」と。つまり、「だから、クラスの生徒が不登校になったからと言って、人件費を減らすわけにはいかない。つまりその教育費をその子やその子の家庭に回すわけにはいかない」ということだった。一見、筋の通った話のように聞こえるけれども、これはずいぶんおかしい!教育公務員の奇妙なすり替えの論理がここにある。
「家で朝ご飯を食べられないから、おかわりするのか」
昨日(2009年02月07日)の新聞等の報道でこういう記事が流れた。茨城県水戸市内の小学校の男性教諭(55)の仕業らしい。
小学校の教員として有り得ない言動である。酷い言い草だ。教師としての資格・資質に全く欠けている。この教委を庇う教委の言葉も見られるが、仲間内で庇い合うのはやめた方がいい。どこを向いて物を言っているのか。即刻退職にすべきである。弁解の余地はない。しかも、こういう言動は今回がはじめてのことではないらしい。この人にはもっと自分に相応しい場で働いてもらった方がいい。これ以上教職に留まることは、彼にとっても子ども達にとっても益はない。禍根を残すだけである。
何で教師の世界にはこういう人間が多いのか。新聞やテレビで、教師の不祥事が報道されない日はないくらいだ。人間の問題なのか、システムの問題なのか。
私の携わるフリースクール(ぱいでぃあ)にも、毎年母子家庭や父子家庭、離婚家庭などの子が来る。だから、そんなことを知らずにある子が何気なく両親や家庭のことを話していたら、相手から「家には父親は死んでしまっていないんだ」と打ち明けられて絶句するなどということもないわけではない。でも、不登校の子どもでもそういう子どもに対する配慮がある。いや、家庭生活や学校生活での辛酸をなめてきた子が多い分だけ、他人への配慮があるとも言える。それに比して、何だこの教師の態度は!それに何で教育委員会の連中までそんな教師を庇う姿勢を見せるのか。
子どもはこの教師の言葉を否定している。なのにこの教師は勝手に決めつけ、この子を笑い者にしている。それに、もし朝飯を抜きで来ていることが分かったとしても、この言い草はない。逆に、「お前は育ち盛りなんだから、いっぱい食えよ。元気なのが一番の親孝行だぞ」くらいのことがなぜ言えないのかな。
これはある国立大学の教員養成学科(教職課程)の教授の講演会で聞いた話だけれど、経済格差が進行し、至る所で社会の破綻が起きている中で、教職志望の学生達は今の子どもたちの(特に問題児と言われる子どもたちの)生活の現場がどんなにすさんでいる実態があるかまるで知らないし、教職志望の学生達が育ってきた生活空間もそれとは無縁の領域の場合が多いとの指摘もあった。だから、それを理解する感覚が身についていないのだと。
公立学校で働く教員の子供たちは、父や母の勤める公立学校にはまず行かない。ほとんどが私立学校志向である。その中で公立学校に行っている子どもは、塾に行って一生懸命勉強したけれども残念ながら合格しなかった子どもたちである。おかしな話である。教員の親ははそこで食い扶持を稼ぎながら、「パパが働いているような学校には来るな!」と言っているのである。だから、そのことを口に出すか出さないかは別として、自分の勤務する学校は我が子を通わせるに値する学校とは考えていないのである。
だから、学校の教員による学校改革に関する言動もどこか空々しく、行動にも熱意が乏しい。これはそれを指導し支える教育委員会も同じか。教育関係者が言っていることは果たしてどこまでが本音なのか。
たとえば、不登校でスクール(ぱいでぃあ)に通うことになった学校の担任から電話がかかることがある。(生徒が不登校になると校長や担任が挨拶にやって来るところもあるし、全く無関心を装うところもある)。が、なかなかやって来ない。しばらく経ってからこんな電話が入る。「すみません。有給が取れなくて…。行けなくなりました」これ、どういうこと! 教員の世界は完全におかしい! 学校は教師のためにあるらしい!子どものためではないようだ。
昨年、県教委に話に行った。そこで話したことの一つは、「学校を離れた子どもにも義務教育費を有効に活用してほしい」そのために「教育バウチャー」を発行する方向で考えられないか?これは教育棄民の状態にある不登校の子供たちに学習権・教育権を保証する当然の措置ではないか。ということを言って来た。数名の保護者を伴って。
で、そこで返ってきた回答はというと…、実にお見事!と感心するものだった。「趣旨は分かるけれども、学校に廻る教育費の7割は教員の人件費なんですよね」と。つまり、「だから、クラスの生徒が不登校になったからと言って、人件費を減らすわけにはいかない。つまりその教育費をその子やその子の家庭に回すわけにはいかない」ということだった。一見、筋の通った話のように聞こえるけれども、これはずいぶんおかしい!教育公務員の奇妙なすり替えの論理がここにある。
たとえば、私立学校や塾を考えてみればいい。生徒の求めるものとまったくずれている授業をする教師や不登校生や中退者をどんどん出すような教師は、どうみたって勤務評定は下がり、時には首にもなるだろう。教師の授業のあり方、生徒指導のあり方が学校経営に直結し、彼らの給与にも鋭く反映するはずだ。だが、教育公務員には、そういう経営感覚はまるでない。給与は働きの優劣に関係なく当然の権利として支給されるものであるらしい。学校に通えなくなるような生徒をどれだけ出そうと、逆にどれだけ熱心に教育に誠心誠意を傾けようと査定に差がなく、給与にも差がない、ということなのか。それとも、差をつけてはならないということなのか。
昨日、1週間ほど前に教育相談に来られたあるご家庭に電話を入れた。そこは母子家庭で、お母さんはリストラにあって失業し、お婆ちゃんの年金で何とかしのいでいるという。子どもはもう何年も学級に出られないでいる。週に1度程度、保健室か校長室に行っているだけだという。学校に行くということはこの子にとって駄目な自分を晒しに行くようなものだ。だから余計に人を怖がり、引きこもっている。もちろん、それを乗り越えるようなスキルもない。
子どもは家庭の状況を考えて不登校になるわけではない。だから、困難な家庭の子も、生活保護の家庭の子も相談に来る。でも、自力でフリースクールに通わせるゆとりはない。このままでは、本人の人生も花開かず、国家でもって一生自立できない国民として保護しなければならなくなるかもしれない。
学校の教員は、子ども達のそういう現実を良く知って関わるべきであろう。それが不可能なら、そういう教員は学校現場には要らない。もっとましな代えはいくらでもいるだろうから。