教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

与えられたように子どもは育つ

2009年02月14日 | 教育全般

子どもは大人の思っているようには育たないものですね。

たとえば、辛い境遇の中で苦労して育った子どもを見れば、大人はこの子はこんな辛い体験をしたのだから、きっと立派な人間に育つのではないかと期待します。しかし、実際にはその子どもはそういう大人の期待通りにはなかなか育たないものです。逆にその子どもは育ちの過程で必要であった大事な要素を欠落したまま成長することにさえなります。そうすると、その子どもはむしろ欠陥の多い人間として大人になることになってしまいます。

また、その子の兄弟等に障害のある子がいるような場合には、親は障害のある子に眼を向けがちであり、健常な兄弟にも障害のある子を労わるように接することを当たり前のように期待することになります。そして、親はその健常な子が日々障害のある子に甲斐甲斐しく接している姿を見て、その子はさぞ心根の優しい子なのだろうと思いがちです。しかし、成長期の子どもはまだ大人のようにバランスの取れた思考(これも理想論ですが)ができません。それよりも、時には大好きな親を独り占めしている憎い兄弟と思ったり、いつもいい子を演じさせられてきたことの不満で気持ちがパンパンに膨らんでいるということも大いにあり得ることなのです。

このように、子どもは望まれたように育つのではなく、与えられたように育つものです。ですから、それが与えられなければ、それが欠落したまま育つことにもなりかねません。

別の例を挙げれば、両親の仲が円満ではなく、冷たい空気が家庭を支配していたり、子どもが母親のネグレクトに遭い、十分な母親の愛がないまま成長したとします。すると、可哀想なことにその子は十分に母親の愛情を知らぬまま成長することになり、それが当たり前の感覚として成長することにもなります。

これは決してその子の責任ではないでしょう。その子の責任ではないけれど、そういう境遇がその子の人間性を大きく規定してしまうことになってしまいます。そして、「自分がそういう人間に育ってしまった」と自身で気付いたときには、もはや自分ではもはやどうしようもないくらい大きく規定され形作られてしまっている自分を発見することになるわけです。つまり、子どもが親の庇護を脱し、自分で責任を持って行動できる年齢になったとき、彼は自分が自分の力ではどうにもならない仕方で規定されてしまっているのを発見することになるわけです。そして、そのように作られてしまった自分をもう元に戻すわけにはいかないのです。過ぎた時間は巻き戻せないのです。考えてみれば、これはとても恐ろしいことです。

ですから、親としてはその子の育ちの過程に欠けたものがないよう、細心の注意を払った子育てが必要になります。大人の庇護下にいる子どもはまだ視野は限られていますし、基本的に与えられたもの以外選択のしようがありません。選択するのはその子どもだとしても、選択する材料を彼の前に提示し、どう考えどう選択するのが賢明な方法であるかを例示するのは、他ならぬ親であり大人であるわけです。

新聞やテレビで、もはや取り返しのつかない事件を起こしてしまった若者の行状を見るとき、彼らの自己責任などという軽々しい言葉では形容できない、時に…自分でもどうにも自分を律することのできなかったという…彼らの深い呻きのような声を聞くような気持ちになることがあります。確かにとんでもない犯罪を犯したのは彼らです。しかし、なぜ彼らはそういう行動に至ってしまったのか。…そこにこの社会を構成している者の一人として、忸怩たる思いになることがあります。