教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

フリースクールでの学び① …日本の民間教育の歴史

2009年02月27日 | スクール活動

フリースクールでの学び① …日本の民間教育の歴史

▼読者の方は、フリースクールという学び場をどのようなものとイメージしているだろうか。また、そこでの“学び”というものをどのようなものとイメージしているだろうか。大部分の人は多分、かなりステレオタイプ化されたイメージを持っているのではないかと睨んでいる。どうせ学校教育から落ちこぼれた子どもたちなのだから…と。

▼大まかに言えば、その捉え方は半分合っているとも言えるし、半分は外れているとも言える。なぜなら、たとえば識者が“フリースクール”という言葉で一括りにしようと、フリースクールという教育施設はその数だけの設立の理念があり、どれ一つとしてまず同じものはないからである。それに、フリースクールの中にも歴史性というものがあり、第一世代のフリースクール、第二世代のフリースクールなど、そもそも設立の趣旨が違うことも多いからである。

第一世代のフリースクール、すなわち初期の登場したフリースクールは、“学校教育から子ども達を守る”“子ども達の側に立つ”というような理念で共通性があった。だから、初期の進学塾や学習塾がそうであったように、第一世代のフリースクールもまた学校と鋭い対立関係を持つ場合が多かった。事実、フリースクールの設立に参画した親達は学校側に対してそのような攻撃的な姿勢をとることが多かった。だから必然、学校の教員やPTAなど学校側の論理に則って行動する傾向の強かった親達には、フリースクールという存在自体が“反学校”的な施設と写っていたようである。

▼フリースクールという存在の登場(詳しく見れば明らかになるが、フリースクールは地域の学習塾の活動の中から生まれている)は、その初期から不幸な対立構図を持ち込んだとはいえ、日本の学校教育の中にエポックメイキング的な意義をもたらしたことは明らかである。

▼日本の教育の歴史を紐解くまでもなく、日本の社会には子ども達の教育に国家が乗り出してくる前に、奈良平安時代の昔から連綿と続く民間教育の歴史があった。英国等の貴族の子弟に対する教育はよく引き合いに出されるが、日本の場合にも──誰か系統的に系統的に研究した人はいないのだろうか──僧侶や貴族や豪族達の間では熱心な教育が行われていたということは、当時の資料からも明らかに読み取れる。たとえば、太安万侶にせよ清少納言や紫式部にせよそういう中から輩出した人達であったろう。フリースクールも民間の教育運動の一形態と考えれば、そのような民間独自の教育活動に行き着く。

▼ところが、明治の新政府が誕生し、欧米の列強に対抗すべく、明治5年8月の学制発布により徐々に教育の国家支配が浸透している中で、民間主導の寺子屋での個別教育に代わり、教育は国家が取り仕切るものという意識が一般的となり、今日では当たり前の授業風景となっている国家主導の学年別の一斉教育が行われるようになっていった。だから、産業の振興と共に教育内容も徐々に高度化し、巷間の教育熱が高まるのに比例して、学校教育から脱落する子ども達や“登校拒否”の子ども達が多数生まれるようになり、そこから子ども達を救済する教育機関としてフリースクールが誕生するに至るのは事の成り行きとして必然的な流れでもあった。そして、そのフリースクールが“学校教育から子ども達を守る”“子ども達の側に立つ”ということをその目標に掲げたのもある意味当然のことであった。その一方で、日本のフリースクール運動が不登校生のための受け入れ機関に特化されてしまい、本来のフリースクール運動が変質してしまったこともまた厳正な事実として受け止めなければならない。

▼そこで、日本のフリースクールの活動を考えるときには、本来のフリースクール運動とはどういうものなのか、国家主導の日本の近代教育が確立する前にあったという民間の教育活動とはどのようなものであったか、本来教育というのは何を目標としているのか…ということを再度確認しておきたいと思う。

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