眺めるのは、見つめるのは、命である。すること、すべきことは、それなりに、その終焉まである。それだからと言って、焦るようなことではないので、ぼけ日記に現れるのは暇つぶしの話である。そうなるとブログは何をもって、ブログ足りうるか。健康の衰えを自覚的に、老いとはかくかくしかじかであると、精神の緊張を保つべく、それを記すことにあるか。耄碌は繕ってみても、それが何であるかをより知ることになる。言志録を取り出して開いてみて、その年齢相応の物言いに、耄碌はそれに過ぎないと見透かしている。儒教なり、道徳なり、どれほどのことも、この年齢ではまとめて書いてしまう。それを単純にもとの思惟に合わせてみれば、己に言い聞かせているほどのことである。どこを開いてみても、儒学の基本は何であったかとわかってしまえば、その議論のめぐりである。静座すること数刻の後、人に接するに、自ずから言語の叙有るを覚ゆ、 . . . 本文を読む
ニュースの取り方が変わってきている。新聞による情報が時間サイクルであわなくなってきたからと言うことであるが、そのニュースを速報としてネットサイトで入手できる。端末がパッド、タブレットで見ることを容易にして、手もとの携帯がそのままスマートにアプリとなって刻々と伝える。その即時性は速報性をさらにかえさせた。ニュースを知る、新聞を読む、朝刊と夕刊の定時に配達があったものに、テレビというメディアによるニュースのとあらえかたで、当然そこにはラジオニュースもあったわけであるが、そのニュースには新聞社がらみのものばかりであったから、NHKはさておき、同じく定時ニュースと臨時ニュースの類でいつ見ても同じようなことであった。そして、メディアのニュースはその独自性を出そうとするがための偏向報道が意識されて、前後してマスコミが起こすフェイクとなって、それまでの新聞ニュースの公正さを失うようなことになってしまった。 . . . 本文を読む