とはいえ、メンバーに集まった人たちは、自分たちの自主的な運営による行事づくりを考えていたのだから、学会がどうだか、組織がどうだか、運営をどう、と言ったようなことには、まだまだ、なかなかならない。学部での経験は教育と研究の学科による学会活動が何であるかを知るのは、学年が進行して、すこし、その活動を知ってからのことになる。したがって、学生メンバーの話し合いは自由に行うことを基本として、スタートの場所をどう提供できるかということにあった。目前に迫ったのは学会による研究大会の開催である。何がどう進められるかがよくわからないだろうから、研究発表会とだけとらえて、教室、日程、準備などを進めた。開催をいつにするか、学科での協議があって、12月に行われることになった。学会研究大会第1回は記念すべくとどこおりなく、下役がかんじんなことであるので、準備よろしく成功したのは、学生たちの働きのたまものである。 . . . 本文を読む
聞こえにくい子供たちに言の葉を ――ともに輝きつづけるために、聾・難聴児教育の現場から―― 加藤和彦さんから、いただいた本である。タイトルに示されるように、国語科目の実践をつづっている。生徒児童は聴覚を持たない、あるいは失っって、聾教育、養護教育を受けるか、普通教育を受けている。この著作は、著者による願いである。子たちの声を聴きたい、子たちが持つ発想を知りたい、子たちが言葉を紡ぎだすのを知りたい、それを一言でとらえるのは難しいが、子たちに描画を以て、ときには略画で子たちの声を引き出そうとする試みである。しかし、声は聞こえないのであるから、その発想に触れて、その子の持つ言葉を引き出すには、その脳内言語の教育をどうすればよいかと問いかける。おそらく著者は聾者に対する言語教育の方法を自らの信念で子供の思考に寄り添うことを主張している。おそらくというのは、そうでない教育方法を批判して自らの授業を実践し続けているからである。そのそうでない教育とはどんな教育方法か、それが著者の批判する方法であるだろうが、それはこの著作には語られていない。ただし、国語教育とは何かを問い続けている。ここであえて、国語に対する批判に読者なりに感想として述べると、言語教育としての音声、文字のいっぽうを欠く児童に対する方法がないから、音声指導に準ずる形での補償教育の方法についての不完全さにある。音韻をとらえきれない教育現場である。文字は手話教育で成り立つことがある。文学教育としての学習の素養にはイメージを伴う解釈が求められて、それを得意とする教師、生徒児童はまた限られることである。くわえて、国語のしつけはアイデンティティーの確立に寄与する教育であるから、国語そのものを拒否する結果となる障碍者にはその学習が非常に困難になることである。 . . . 本文を読む
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テストと単位
2006年07月24日22:54
テスト週間が2週続く、それで試験終了後の授業期間に休む場合は届けを出すことになっている、あくまで授業期間だからだが、そこでその時間帯を授業に当てると嫌われることになる、ちょっとした矛盾だ
学期に15回の授業回数を確保するのは1時間の講義に対して2時間の予復習をすることで単位学習とし、その15回分がおこなわれて1単位認定となることを知って . . . 本文を読む