子犬を抱いた特攻隊員として有名な写真 ↑
帰るなき機をあやつりて征きしはや開聞よ母よさらばさらばと 鶴田正義様
ここに1冊の本をご紹介させていただきます。
連休を利用して、先祖の墓参に帰郷しました婿殿から、沢山のお土産の中にご案内の本が大切に同封されておりました。
皆様がよくご存知の片道の燃料で飛びたった若き兵士の実話を綴った哀しい物語です。本の題名からして涙が溢れました。
ページに写る若き隊員の皆様の凛々しい笑顔のお姿に涙を止めることが出来ませんでした。
ただただご冥福をお祈り申し上げながら拝読させていただきました。心からの合掌
陸軍特別攻撃隊 ー 散華した若き命の物語 より
一部をご紹介させていただきます。
(前 略)
もともと知覧は薩摩藩の外城として栄えた町でした。
薩摩藩は藩内に知覧のような外城を102もつくり、藩の護りにあてていたのです。
今なお武家屋敷群は残っていて、標高517メートルの母ヶ岳を借景とした庭園がそれぞれの趣向をこらしています。
そんな美しい町につくられた知覧飛行場に特攻隊員たちは次々に集結しました。その多くが17歳から20代前半の若者たちでした。
ほとんどの隊員たちは知覧基地に到着して4~5日間を 三角兵舎↓ ですごしては出撃して行きました。なかにはたった一夜だけの滞在で出撃した隊員もいたと言います。
写真でご紹介の隊員たちの最後の兵舎となった三角兵舎はまことにみすぼらしいものです。半地下式の木造で、飛行場周辺の松林のなかに散在していました。
風通しもわるく、中はいつもじめじめしていたといいます。
敵機に発見されないように屋根だけが地上に出ているような形なので三角兵舎と呼ばれたのですが、その屋根にも擬装のために樹木がかぶされていたのでした。
そんなひどい環境のなかで隊員たちは談笑をし、みずからの遺品を整理したりしては遺書を書いたのです。
それがたとえ時代の与えた宿命であったとはいえ、わずか20年そこそこの命の終焉に臨むにあたって、どのような思いが若者たちに去来したのでしょうか。
表紙の写真↑ を見ていただきたい。
出撃前に子犬を抱いた特攻隊員として有名な写真です。隊員は2名が18歳で、3名が17歳という若さでした。
(中 略)
22歳で散華した枝幹二大尉の書いたものの一節です。
あんまり緑が美しい
今日これから
死に行く事すら
忘れてしまいそうだ。
真青な空
ぽかんと浮かぶ白い雲
6月の知覧は
もうセミの声がして
夏を思わせる。
作戦命令を待っている間に
詩とは元来、書かれているものより書かれていないところに本当の意味が満ちているものです。
(中 略 ・ 後 略)
最後にあらためて書く必要もないほど自明のことですが、戦争は絶対に起こしてはなりません。
しかし、この稿を興している2009年6月にも世界では、いまなお戦火が絶えません。
戦争で多くの人命が失われているのが現状です。私たちは、今こそ自分じしんを見つめ直さなければなりません。
生きるということ、死ぬということ、個人であるということ、それらの関係として家庭があり、国家があり、世界があるということ。
そのように、生を、死を、家族を、世界を思うとき、特攻隊員として散華した若き命の物語はこれからも多くのことを私たちに教えてくれるのではないでしょうか。
2009年6月30日 は本より転載させていただきました。
特攻平和観音堂 隊員達が最後を過ごした三角兵舎
少女から花束を受ける 屋根の上から機影が消える 当時の富屋食堂
特攻隊員 まで手を振る知覧高女生
特攻隊員たちを出撃までお世話した知覧高等女学校の生徒たちのことは下記表題にて放映されました。
「戦場のなでしこ隊 ~ 特攻隊 ・・・ 死への出撃」
生存者の証言と15歳の少女の日記が綴る鹿児島県 ・ 知覧においての真実。
桜の花で特攻隊の皆さんを見送った少女達だけが見た、封印され続けた特攻隊の真実。
63年目にして婚約者の軍服に顔を埋めた白髪の女性。
2時間にわたる放映に涙が溢れました。
簡単なご紹介ですが2008年09月20日に綴りましたのでご紹介させて頂きました。
本書においても女学生たちは 「なでしこ会」 と呼ばれ、まさに 「なでしこの花」 のように、そのけなげで献身的な行為は死を目前にした若き隊員たちをどれほど慰め、
勇気づけたことでしょう。
「富屋食堂」↑ についても、軍の指定食堂になっており、隊員たちはトメさんのことをいつしか 「おかあさん」 と呼ぶようになっていました。
トメさんの存在とともに「なでしこ会」の女性の献身は、ある意味で後世の私たちに対する救いともなっているのです。と書かれております。
毎夕食後、静かなひとときになりますとページを繰り、とても10代には見えない凛々しいお姿、立派な文字、文章の遺書に心が痛み、幾たび涙を流したことでしょう。
昨今、耳や眼を覆いたくなる記事が報道されておりますが、命の大切さを是非考えて欲しいと念願しております。
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60年ほど前に書かれたものですが、今まさに語り掛けられたような気持になります。
純真な青年の国を思い、親を思う気持ちが痛いほど伝わってきました。私は彼らの遺書や手紙を読んでみて、この文章の中に本当は表現したいことがあるのに出来ない悔しさ、悲しさがもっともっとあるのではないかと考えました。辛かったとおもいます。
本当に涙なくしては読めません。
なぜこんなに哀しいことがあったのでしょうか。
事実なんですね。
皆さんとても立派なお方だったんですね。
文字が!文章が!物語っております。
残念!無念!を何度言っても怒りがおさまりません。
ブログの友人のどなたかのところでお目にかかりましたように思いますが、
思い出せませんで大変申し訳ございません。
私はまだ知覧を訪ねておりませんでしたので、「知覧特攻平和会館」を初め、
引き揚げられた「海軍零式艦上戦闘機」の写真などを本の中で見ております。
「文章の中に本当は表現したいことがあるのに出来ない悔しさ、悲しさが
もっともっとあるのではないかと考えました。」↑ に同感でございます。
私も遺児ですので、母に届いた「軍事郵便」は生有る限り大切に保存しながら
回顧しております。
父の倍以上も生きて参りましたが、一度でよいから父と会話をしたかったと
悔やまれます。
この度はコメントを頂きまして誠に有り難うございました。
今後とも御指導の程宜しく御願い申し上げます。
以前「藁ボッチ」のことを教えていただきました。
知覧へは短歌会のメンバーが行きましたが、悲しすぎてあまり歌は出来なかったようです。
三角屋根の建物のことも聞いていました。
本当に見るのも辛かったと思います。
「つきみそう」さんでお会いしましたように思いましたのでコメントの
ページを何頁か拝見させていただきましたが、探せませんでした。
大変失礼致しました。
これからも楽しいお便りを拝見させていただきます。
有り難うございました。
婿から
「まだなの」 と言いましたら、この度の本を初め、感想を聞くことが出来ました。
とても哀しすぎます。残念です。
ホントに涙無くては見られないです。
三角屋根も、若い10代の少年達の手紙なども現実のものを見てその頃を思いました。
知人で知覧の特攻隊に参戦し、毎日飛行訓練をしていたが、うまく操縦できるようになった者から飛び立ち、帰ることの無い日が続いたそうですが、その方の番になる前に終戦となったそうです。命拾いをしたと言うよりも、先輩に対する気持ちが悲しいそうです。今もお元気です。
身近にお話しを伺うお方がいらっしゃるのですね。
お気持ちは複雑でしょうね。
ご高齢になられてお出でのことと存じますが、どうぞお元気で戦友の供養をしていただきたく存じます。
何時でしたか「生き残った特攻隊」不時着した隊員への厳しさなどの放映を
涙ながらに見たことがあります。